往年の記録係列伝(森下三段、三浦三段、行方三段、久保三段、阿部三段)

近代将棋2002年1月号、「山田久美のおしゃべり対局 将棋観戦記者 山田史生さん」より。構成・文は大矢順正さん。

 対談場所は、ご両人とも勝手知ったる仕事場である将棋会館。

 お互いに、海外も含め何度も一緒に仕事をしているので「山田さん」「久美ちゃん」と呼び合う親しい間柄。今回は2人とも”山田姓”なので、「山田さん」と「久美ちゃん」で表記することにしました。

(中略)

棋士の人間性を紹介したい

久美「山田さんは、現在は観戦記者として活躍されていますが、現役時代も観戦記を書かれていましたか」

山田「ぼくは、読売新聞に入社したときは、社会部志望だったんです。でも希望通りにはいかないもので、最初は千葉支局で3年、本社に帰ってからは整理部といって、レイアウトや見出しを付ける内勤を2年しました。記者志望といってもなかなか外に取材に行くようにはなれない。その後、娯楽部という放送関係、映画などを扱う部に空きがあるからどうだ、という話がありました。もともとミーハー的なところがあったので、よろこんで、そちらに移りました」

久美「そこで囲碁、将棋を担当されたのですか?」

山田「いや、囲碁、将棋は文化部という部署が担当でした。そのうち、娯楽部と文化部が統合して、自動的にそちらの所属になったのです」

久美「山田さんのお父さんは、囲碁の観戦記者として有名な方ですよね。その関係で囲碁・将棋担当に?」

山田「父は、覆面子というペンネームでした。この覆面子というのは、読売代々のペンネームなのですが、うちの父は昭和22年から50年までやっており、山田覆面子でとおっていたので、結局父が最後の覆面子になりました」

久美「お父さんの関係で小さいころから囲碁や将棋に親しまれたのですね」

山田「家には、多くの棋士が出入りしていました。将棋会では大山さん、升田さん、丸田さんといった棋士はよく見えていましたね。だから将棋担当になっても、あまり違和感はありませんでした。当時はタイトル戦のときでも、よく控え室で囲碁やマージャンなどをしていました。いまは、そうした娯楽をする人が少なくなりましたが。大山さんはマージャンでしたが、升田さんは囲碁で、その相手をよくしていたのが、ぼくの父だったんです」

久美「いま、フリーの観戦記者になられて、ご自身ではどのような記者を目指していますか」

山田「将棋の技術解説なら、もっと専門の方がいますからね。ぼくは、いまも言いましたが、読売新聞で26年間将棋を担当し、また小さいころから多くの棋士と馴染み、いろんな棋士を見てきました。みなさん個性がある。そうした人間性がわかるような記事を書きたいですね。現在は若い棋士が多く、馴染みが薄いこともあって、個性が出しにくいところもありますが」

現役時代のエピソード

久美「多くの対局を見られてきた山田さんが、印象に残っている棋士や対局はありますか?」

山田「それは、挙げたらきりがないほど見ています。でもやはり、中原さん、米長さん、加藤さんにまつわるものが面白い。個性が出ていますからね。中原対加藤戦の終盤で、加藤さんの残り時間が3分くらいになったときでした。中原さんの手番なので、加藤さんが手洗いに、と部屋を出ようとした瞬間<パチッ>と中原さんが駒音高く指す。加藤さんが慌てて戻って指したあと立ち上がると、またパチッ(笑い)。中原さんは温厚な人のイメージがありますが<意外ときついなぁ>と思いました」

久美「活字になるとまずいのではないですか(笑い)」

山田「いや、当時の観戦記にも書かれていましたよ(笑い)。米長さんと加藤さんも、よく突っ張って互いに譲らないところがあった。対局室の部屋の絨毯が『赤すぎるから変えてくれ』と加藤さんが言うと、米長さんは、『いや変えなくていい』。盤駒は、よく地元の愛棋家の提供したものを使用する場合があるが、加藤さんが『連盟の盤駒を』といえば、米長さんは『地元の人の盤駒を』といって譲らない」

久美「そういうときは担当者が困りますね。どうするのですか」

山田「担当者が決めるわけにはいかない場合もある。立会人の意見で、午前中は地元の盤駒を使い午後から連盟の盤駒とか、2日制のときは、1日目が地元で2日目は連盟のもの、といった意見が出たこともあった」

久美「お互い、相手の言い分をそう簡単に通すわけにはいかないという、勝負師の哲学みたいな部分もあったのでしょうね」

山田「米長さん、加藤さんだけではないですよ。前期の竜王戦の最終戦、ぼくは観戦記担当だったんですが『対局室が寒い』と羽生さんが訴えると、藤井さんは『熱すぎる』と反目する。そこで羽生さん側の襖を閉め、藤井さんに近いほうの襖は開けて対局してましたね。ぼくは記者ですから関係ありませんでしたが(笑い)。それとタイトル戦では記録係も印象に残りますね。その後の成績などが気になったものです。森下さんが記録係のときは、すごくハキハキしていて礼儀正しく、この子は強くなるだろうなと思いました。三浦さんにも取ってもらったなァ。いまと同じで余計なことは喋らない生真面目人間だった。行方さんは鼻ばかりかんでいたのを思い出しますね(笑い)。いま売り出し中の久保さんは、ひ弱な感じで、名古屋で対局のとき、関西の手合課の職員から『まだ子どもですが、大丈夫だと思いますのでよろしく』と連絡があり、うまく名古屋で合流できるか心配しましたが、ちゃんとやってきました。同じ関西では阿部さんもいるね。対局翌日は奨励会の例会だというので急いで旅館を飛び出していったのはいいが、旅館のスリッパのままだった(笑い)」

(以下略)

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一昨年亡くなられた山田史生さんの味わいのある思い出話。

森下卓九段、三浦弘行九段、行方尚史八段、久保利明九段、阿部隆八段が奨励会時代の、十段戦あるいは竜王戦七番勝負の記録係を務めた時の様子。

久保九段を除くそれぞれの棋士が今のイメージとほぼ変わっていないところが、当たり前と言えば当たり前だが、面白い。

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両対局者の相反する要望。

足して2で割れるようなことは世の中には意外と少ないと思うので、何かがあった場合は立会人や担当者は本当に大変だと思う。