「棋士のハートには『順位戦命』の彫り物がある」

将棋世界1992年11月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『順位戦』」より。

「それがどんな勝負であれ、金(対局料、賞金など)のデカさを争う将棋のプレッシャーは大したことがない……年間わずか10局の順位戦にこそ、真のプレッシャーがある。昇級あるいは降級のかかった順位戦の前夜、ぐっすり眠れる棋士はいないんじゃないか」

 神谷広志(31歳、六段)のしみじみとした述懐である。

 前期B級2組順位戦で、神谷は前半を1勝4敗で折り返した。緒戦こそ浦野真彦六段に勝ったものの、そのあと児玉孝一・桜井昇・中村修・羽生善治の各プロに連敗したのである。

 この時、神谷の順位はB級2組22名中、20位。自分よりも下位に5連敗の棋士が1人。ほかに1勝4敗者はいるものの、すべて上位者だった。

「このままだと降級点を取る。とくに5局目、羽生棋王に必勝の将棋を敗れたあと、降級の2字が頭の中をちらつく。暗たんとした気分に陥った」

 B級2組の降級点ワクは4名。下位の神谷が残る5局を、もし2勝3敗ならば赤ランプが灯る。後半の対戦相手にはこの時点で全勝者の勝浦修(45歳、九段)がいた。また昇級候補の富岡英作(27歳、六段)がいた。

 勝ち続けている時には悪くても指し分けの相手が、負けがこむとことごとく強敵・難敵に変わる。重苦しい気分を抱いたまま、神谷はレンタル・ビデオ店に入った。

「選んだのはクリストファー・ケイン監督『ヤング・ガン パートⅠ』。たまたま目についたので借りた」

 米国ガンマンの歴史に名をとどめるビリー・ザ・キッド。彼が映画の主人公であった。

 事件の渦中にあるキッドが、最後の軍隊に包囲され壮烈な銃撃戦となる。勝ち目のないたたかい。キッドがニヒルな笑いを頬に浮かべながら、ピストルを射ちまくる。銃撃戦の中に身を置くのは楽しい……といわんばかりの表情で、神谷の気分が動いた。

「これがたたかう男なんだ、将棋指しはこうでなくっちゃいけない……ふと、そう思った。勝つか負けるかの結果より先に、たたかうことがうれしくてたまらない。それが将棋指しじゃないか。結果ばかり気に病むんじゃ、棋士やっている意味がない……たたかって死ねば(降級すれば)それで本望じゃないかと」

 腹の底に、ふてぶてしいような澄み切ったような開き直りが生じた。それから4連勝、神谷は危機を脱した……。

―それほど降級点にこだわるのはなぜ?収入と名誉?

「うーん……そのどちらでもない。既得権という、えも言われぬものだね」

* * * * *

 大島映二(35歳、六段)の脳裡に刻みつけられた強烈な場面、それは順位戦の夕食、鍋焼きウドンが噛めなかった体験である。

 1979年早春、大島にとって2期目のC級2組順位戦。この時点で大島の星は2勝6敗。残る2局を1局でも敗れれば降級点を取る。9局目、大島勝ち。最終局は関西の老雄・角田三男七段(故人)と当たり、夕食休憩前には必敗の局面となった。

「相手は▲3二歩成と指している。これを△同玉と取るか△同飛で取るか、二つに一つしかない……どちらで取っても負けはハッキリしている。次の一手を指すのがこわくて、1時間40分の大長考に入り、そのまま夕食休憩となった」

 玉で取るか飛車で取るか。どちらの方がよりまぎれが多いか。長考の中で、夕食に頼んだ鍋焼きウドンが届いた……。

「鍋を前に箸を出すが、自分の歯がカタカタ鳴っている。降級点の恐怖で、歯の根が合わず震えている……鍋焼きウドンが、まるで噛めないのには、参った」

 夕食休憩再開後、大島は目をつむるような思いで△3二同飛と取る。するとどうだろう、相手は少考後にそっぽの緩手を指したのだ。

「こんなことが……本当に起きていいんだろうか。しばらく呆然としたような小躍りするような気分だった。この一局を拾って、辛うじて降級点を逃れた」

―ウドンが噛めないほどの恐怖と緊張。なぜ、それほどに?

「あれは独特の恐怖ですね。棋士としての既得権を失うこわさとでも言うか」

―その「既得権」ですが……権利の正体は何ですか?収入減少と、降級という名誉の喪失ですか。

「いや、そのどちらでもありません」

* * * * *

 順位戦が、棋士人生にどんなに重苦しい陰影と、麻薬のような”快楽”を生じさせているか。

 棋界とつき合って20数年の間に、筆者はいやというほど実例を見てきた。

 かつて新人王戦観戦後の取材で、「順位戦ならそう指したかもしれないが……」の若手棋士の一言にかちんと来て、観戦記で当の棋士を批判、これがゆえにしばらく観戦停止の憂き目にもあった。

 またいつだったか、観戦翌日の上り新幹線車中で、当時バリバリの現役八段と偶然乗り合わせ、順位戦の話になった。

「順位戦で大阪入りするのは3日前。大阪市内の一流ホテルにチェックインして上等の焼肉を食べる……詰将棋を猛烈に解き、夜はマッサージをたのむ。対局の前の日は、朝から身心をリラックスさせて対局に臨む」

 とバリバリ八段は笑った。

「このホテル代、ごっそう(ご馳走)代とあんま代金で、順位戦1局の対局料がとんでしまい、完全な赤字になる……それで負けでもしようものなら、殆どやけっぱちの気分。帰京の車中で『おれは阿呆だ馬鹿だ低能だ』と言い続け、おのれをののしっている」

 この時、バリバリ八段はみごと勝利を収めての帰京だった。「あんた、食堂車でウナギを食おう、ウナギの太いのを、あっはっはっは」と車中上機嫌だった。

 またいつだったか、B級1組順位戦最終局の夜、たまたま関西本部で”電話番”をしていた(外部将棋ファンから「◯◯先生、昇段しはったですか?」式の問い合わせが多く、筆者が勝手に”電話番”を買って出たのである)。

 午前0時30分を回って、中堅の七段棋士が階上から事務室へ下りてきた。彼はB級1組で陥落せとぎわの一番をたたかっていたのだ。電話のダイヤルを回し、

「ああ……わしや。……あかんかったわ……」

 筆者のほか誰もいない事務室に、当の七段棋士は受話器を握ったまま、絶句していた。電話口の向こうで、誰か女性がすすり泣いているようであった。

「もう……ええ。……帰るわ」

 七段棋士の声は震え、頬に光るしずくが流れていた。

 またいつだったか……と、こんな話を書きはじめるときりがない。棋士のハートには「順位戦命」の彫り物がある。

(以下略)

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この当時は、順位戦以外の棋戦の対局料も順位戦の在籍クラスと連動していたため、順位戦が背負っている諸々の比重は今よりも大きかった。

この年に「順位戦改革委員会」が発足し、後に、順位戦以外の棋戦の対局料が順位戦と連動しないような制度変更が行われている。また、同じタイミングでフリークラスが新設されている。

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とはいえ、順位戦の厳しさ、苛酷さは今も変わらない。

最後の関西将棋会館事務室での電話の光景、胸が締め付けられる。