第52期名人戦第2局〔米長邦雄名人-羽生善治四冠〕が行われた愛知県蒲郡市西浦温泉「銀波荘」の方々へのインタビュー。
将棋マガジン1994年7月号、駒野茂さんの「名人戦第2局特別密着レポート タイトル戦を支える人たち」より。
表舞台は塚田泰明八段の筆にまかせまして、ここではタイトル戦を支える人たち、を取り上げます。
特にホテルの方々を中心にお話を聞いてみました。
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今回「銀波荘」は、女子従業員7名が担当者。その中で、18年タイトル戦を見てきたという方がいました。清家千代子さんです。
「これまでで一番驚いたことは、中原先生と森先生の名人戦第3局です。剃髪姿で現れたのでビックリしてしまいました」
―一番緊張する時は?
「1日目、開始の時にお茶を出すのが一番緊張します。手が震えるどころか、足までガクガクです。こぼしちゃいけないと思うとなおさらですね」
―両対局者との、何か思い出はありませんか?
「私は足が悪かったのですが、そのことを知った米長名人が名医を紹介して下さいまして、診てもらったら今では正座が出来るようになりました。ありがたいことです」
―対局の前日に、両対局者はホテルに入りますが、どんな行動をしていましたか?
「名人は近辺を散策。遊歩道がお気に入りのようです。一膳飯屋に入って、きしめんを食べられました。それがすごくうまいんです。ただ、店の造りがどうも…。ある人に言わせると日本で下から3つ、だそうです。確かにそう言われても…と思いますが。でも、そんなところでも、ひょいひょいと入って行かれるんですね。うまいというのをどこで知ったのかしら、本当に不思議でした。私どもよりこの辺はくわしいですね」
2日制のタイトル戦では、1日目が1時間おきにお茶を出して、2日目は夕方辺りから1時間半、2時間と間を開けて出します。とは担当の何人かに聞いた話。
出す飲み物にも色々と対局者の注文があるようで、今回は抹茶が中心。清家さんの腕の見せ所でもあります。
茶碗にしても気遣いが行き届いていて写真の数以上に器を使うのです。
今回から、担当部屋にもモニターテレビが付けられて、対局室の模様は一目瞭然。
米長名人はお茶を注文しても飲まないことが多いとのこと。それが今回はグイッと。
「ワァー、飲まれた」
と部屋の内で喜びの声があがっていました。
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若女将の大浦政子さんは、こんな話を聞かせてくれました。
「米長名人は第1日目の封じ手が終わったあとに、好きな遊歩道に散歩に行かれました。その途中で、オスのカニ2匹が喧嘩しているのを見つけられて、しばらくそれを見ていたそうです。先生はその様子を楽しそうに話されまして『大きいハサミはかみ合わせて、片方の小さなハサミでお互い目を狙い合うんだ。立ち上がるような格好をしてな』と。でも夕食の時間に間に合わなくなると、その2匹のカニを近くにあったハコに入れてホテルに持って来ましてね、そして、『何か自分達が戦っているみたいで、どうなるか見てみたい』なんておっしゃるのです。ですから、カニは綺麗なバケツに移して、大切に扱いました」
2日制のタイトル戦、その1日目はまだ前哨戦と言えます。実戦の進行も遅々としてまだ駒がぶつかっていません。いかなる戦いになるのでしょうか。それに、カニさんの対決も気になるところです。
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2日目。午前9時の開始。立会人の関根茂九段が封じ手を開封します。この所作が始まる前、着座する対局者の表情は昨日両者で対峙していた時と同じ顔に戻っていました。
表情のことを担当の方々に聞いてみました。
「羽生先生は淡々としているように感じました。米長名人は気合いが入っているというか、何だか怖い感じです」。
―それはお茶を出す時に感じたのですか?
(別の人が答えて)「いいえ、そんな、とても顔を見る余裕などありません。対局室に入った時に、ピンと感じるんです」
封じ手は△5二金。盤上没我に入る両対局者。モニターテレビに映る二人の顔は、見る見る内に険しくもあり、緊張あり、厳しくもありと変わってきました。
この日は同ホテルにおいて大盤解説会が行われます。午前11時からと午後は3時と5時から終局まで。
それと昼食前にファンに対局室に入ってもらい、生の雰囲気を味わってもらおうという手配になっていました。
その指揮を取っているのは総支配人の鶴岡文夫さん。25年間、「銀波荘」に勤務しています。
話をうかがったところ、羽生さんは今度で2回目、米長名人はもう何十回となく、こちらに来ています、と話してくれました。人間性も分かってきますね、と付け加えて。
それでも、
「ある一線を越えて馴れ馴れしくなってはいけない。緊張感を持ち続けていなければと思っています」と。
ここでの名人戦は第2局がほとんど。気分的にも楽だと話していました。
「顔馴染みの先生が、負けてタイトルを失うとか、結果が出てしまうのは社長以下、つらい思いがあるので」。
準備は挑戦者が決まってから始めるそうです。ルーム、調理、フロントなどでチーフ会議を二度行って、それで備品を揃え、リフォームにかかると。
「予想外のこともたまにはあるものです。蒲郡では、競艇の開催があるのですが、移動日にそれが当たってしまったことがありましてね。車が大変混むんですよ。これでは前夜祭に間に合わない。そこで、蒲郡から船で移動しました。これ以外にも船で西浦港まで移動したこともあり、懐かしい思い出です」
話を聞いているうちに対局観戦者の列がなくなっていました。あとで150人ものファンが集って来たことを耳にして、ビックリするも、嬉しい気分です。
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話は違いますが、もし対局者が谷川浩司王将の時は食事はどのようになるのでしょうか。エビ、カニ、魚介類が苦手ですから。そこで、調理長の袴田政克さんに聞いてみました。「銀波荘」に来て11年になるそうです。
「名人戦の日程が決まると、オーナー、社長、総支配人で会議をします。前夜祭と打ち上げを含め、3日間の朝・夕食の内容を決めるために。名人戦の時期は同じなので、旬の物でも毎回変えてお出しするようにしています。器も、使いたいと思う物をすべて目の前に並べて、料理に合ったものを選んで。一番気を遣うのはこうした点です。先生方の好き嫌いは会議でチェックします。米長名人は特に嫌いなものはないようで、フルーツが好物と聞いています」。
袴田さんは一つ一つの言葉を丁寧にしゃべります。以前に大山康晴十五世名人と一緒にゴルフをしたこともあるとか。
すべてのお客様には必ず温かい朝食を召し上がっていただくのがモットーで、調理場には毎朝4時半に入ることを、一年中欠かすことはないそうです。
調理場のみなさん、対局者は料理をおいしそうに食べてましたよ。
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2日目も夕食を過ぎると緊迫してきます。お茶の出し入れも難しいところなのですが、夕食後に米長名人は8時にレモンティー、9時にコーヒーをくださいと、担当者に注文していました。
「終盤のこの時間にお茶の注文をするなんて…。私達、ビックリしてしまいました」。
戦いの方は、長期戦に。名人の読み筋通り?に進みました。しかし、△8六桂から△6八金が米長名人の意表をついて、一気に終局。終了は10時26分。
バタバタと動く関係者。
打ち上げの席に両対局者がついたのは、日付も変わった0時15分でした。
この宴は3時過ぎまで行われ、そして朝を迎えました。
担当者はみな徹夜。
それでも朝食の時に、「おはようございます」と元気な声で関係者を迎えてくれました。その時に「そう言えば」とある担当者の方が話しかけてきました。
「名人は今朝も早起きされて、散歩に出掛けました。カニのバケツを持って。その時に、『もう戦いは済んだから、放してあげよう』とおっしゃっていたのが、すごく印象深かったです」。
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対局場の現場の担当者からの話が聞けるのは貴重なことだし、とても嬉しい。
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「1日目、開始の時にお茶を出すのが一番緊張します。手が震えるどころか、足までガクガクです。こぼしちゃいけないと思うとなおさらですね」
「いいえ、そんな、とても顔を見る余裕などありません。対局室に入った時に、ピンと感じるんです」
このような、タイトル戦の経験が豊富なところでも毎回緊張をしてしまうのだから、タイトル戦番勝負から発せられるオーラがいかに凄いかがわかる。
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「私は足が悪かったのですが、そのことを知った米長名人が名医を紹介して下さいまして、診てもらったら今では正座が出来るようになりました。ありがたいことです」
どんなに優しい人でも、名医を知っていなければこのようなことまではできない。
米長邦雄永世棋聖ならではの気遣いと言えるだろう。
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「これまでで一番驚いたことは、中原先生と森先生の名人戦第3局です。剃髪姿で現れたのでビックリしてしまいました」
1978年の名人戦で森雞二八段(当時)が剃髪をしたのは第1局が行われた仙台市でのこと。
当時はこのようなニュースが全国を駆け巡ることはなかったので、多少髪の毛が伸びているとはいえ、初めて見てビックリしたのだろう。
銀波荘で行われたこの名人戦第3局の時に、初めてタイトル戦の対局室にテレビカメラが入って、放送(NHKテレビ「勝負―将棋名人戦より」)が行われた。
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「前夜祭と打ち上げを含め、3日間の朝・夕食の内容を決めるために。名人戦の時期は同じなので、旬の物でも毎回変えてお出しするようにしています」
もちろん、対局中の昼食にも全力を尽くしているわけだが、それにも増して、考え抜かれているのが前夜祭の料理・夕食・朝食ということになる。
まさに、調理長の腕のふるいどころだ。
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銀波荘のある西浦温泉は、1955年に温泉が湧いたという比較的新しい温泉街。
銀波荘の創業も1955年で、大浦武生さん(現・旬景浪漫銀波荘代表取締役会長)が脱サラして作ったのが始まりだった。開業当時は4部屋でのスタートだった。
銀波荘が大きく育つきっかけは、女将となる大浦支計子さんが嫁いできたことだった。
昭和30年代は日本経済も安定期に入り、女性が温泉旅行に出かけ始めるようになった頃。支計子さんは女性のお客さんの声を取り入れながら、サービスや施設の改善に努め、1959年には客室数16室にまでになった。
しかし、この年、伊勢湾台風が蒲郡を襲い、銀波荘の建物はほとんど消失してしまう。
皆の気力が折れそうになった時、支計子さんは、もう一度やりなおそう、やるなら夢は大きいほうがいい、将来は100室を目指す、と強い意志を見せた。
とはいえ、融資をしてくれる銀行もなく、大浦夫妻は銀波荘の経営を細々と続けながら東奔西走の日々。
1962年に2階建てとなった銀波荘に、素晴らしい話が舞い込んだのがその翌年の1963年のことだった。
蒲郡商工会議所や新聞社から王将戦の対局をしたいというオファーがあったのだ。
将棋のことは何も知らなかった大浦夫妻だが、両対局者が、静かな雰囲気で最高の力が発揮できるようにと、その間、旅館は休業し、お茶は女将自らが運ぶなど、万全の態勢で臨んだ。
この心遣いに感動したのが大山康晴十五世名人。
「商売を休んでるの?そんなに気を遣わなくていいよ。営業してもいいよ」と話したという。
それ以来、銀波荘で多くのタイトル戦が行われるようになった。
新たに対局室を作るときも、大山名人が設計を手伝った。
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銀波荘で行われた対局に関連するエピソード。
銀波荘の主人に色紙を頼まれた山田道美八段(当時)と、その様子を見ていた大山康晴十五世名人。→色紙が招いたタイトル戦カド番からの大逆転
中原誠十六世名人の有名な▲5七銀が指されたのも銀波荘でのことだった。→「聖子ちゃんや伊代ちゃんを聴いた翌日、将棋会館の盤側で観戦記取材にと、しかつめらしく座っていることもある」
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この9年後にも、銀波荘の方々へのインタビューが行われている。
→「羽生竜王はコーヒーよりもレモンティーの方がお好きなようです」
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