伝説の名作「盤上のトリビア」

2005年の将棋ペンクラブ大賞一般部門佳作受賞作。

将棋世界2004年4月号、山岸浩史さんの盤上のトリビア第1回「将棋には『裏の世界』がある」より。

 ♪世界に一つだけのクズ……そんな歌が、頭に響いて離れない。私が勤務する出版社の創業者は「記事の中にクズが入ると雑誌がクズになる」というおそるべき遺訓をたれた。子供の頃から愛読してきた『将棋世界』を、この手でクズにしてしまうわけにはいかない……。

 人生の正念場に立たされた一介の将棋オタクは決意した。以後は「世界に一つだけのバカ」になりきり、ほかの執筆陣が考えもしないムダなことを大真面目に研究することで活路を見出していく。

 研究対象は、盤上の話に限る。だが、読者の上達にはいっさい役立たない。いわば「盤上のトリビア」である。

「互角」のはずなのに

 で、表題に掲げたのが今回のトリビアというわけだが、これで一発「へぇ」の嵐とはいかないのはお許しいただきたい。何かヤバい話を期待した方にも肩すかしで申し訳ないが、とにかく「確認図」として用意した1図をご覧頂こう。

トリビア1

 居飛車VS振り飛車の序盤、ちょっと見慣れない形だが、あなたなら、ぱっと見て形勢をどう判断するだろうか。

 正解をいえば、形勢は「互角」である。なぜなら1図は、プロ間でもまだ結論が出ていない、そしてもっとも人気を集めている戦形の一つだからだ。

 もうお察しの通り、1図は先手居飛車穴熊VS後手△4四銀型四間飛車の基本形を左右さかさま、いわば「裏返し」にした局面なのである。

 ここからが本題である。

 では読者の目には、1図がはたして「互角」に映っただろうか?

 じつは、このほど私が実施した、周囲の将棋好きに手当たり次第に1図を見せた調査の結果は、居飛車党・振り飛車党を問わず「先手よし」という回答がほとんどだったのだ。一例をあげよう。

「そりゃ、僕は振り飛車党だし、これは先手よしに見えますよ。えっ、ふだん僕は後手のほう持って指してるの?ウソでしょ?」(東京都在住の三野さん)

 裏返しにしただけで、互角の局面がそう見えなくなる。自分の得意形が不利に見えることさえある。将棋には、そんな奇妙な「裏の世界」が存在するのだ。

 かねてよりこの不思議な現象に気づいていた私は、さまざまな棋譜を裏返しにして並べては考察を深めていたのである。

 そもそもこの現象に気づいたきっかけは、3年前のある日の『囲碁将棋ジャーナル』だった。羽生善治VS久保利明の棋王戦五番勝負第3局を、佐藤康光が解説していた。戦形は相振り飛車。終盤のある局面を迎え、佐藤はこういったのだった。

「ここでは先手がいいらしいのですが、私にはそれがわからなかったんです。そこで将棋盤にこの局面を裏返しに並べて、相居飛車の将棋と思ってみたら、なるほど先手がいいと、納得できました」

 一流のプロでも、裏返しにするだけで局面の見方が変わることがある、という話にまず驚いた。そして、実際にわざわざ盤上に裏返しに並べてみる佐藤康光という棋士には、感動さえ覚えたのだった。

「裏」が「表」と違って見えるのは、人間ゆえに起きる錯覚である。コンピュータなら同じ局面と認識するはずだ。

 じつは「錯覚できる」という能力こそが、将棋ではいまだ人間がコンピュータに優位を保っている要因となっている。

 いまのコンピュータの能力では、しらみ潰しに全部の変化は読めない。人間にも当然読めないが、こんな手がよさそう、という直観が働く。それまでの知識、経験をもとに「本筋」という直観を養うことで読みを省略できるのだ。反面、「本筋」を身につけるほど、先入観や思い込みによる錯覚も起きやすくなる。

「裏表がない」のは人間の最大の美徳の一つだが、そんな人間は実在しないように、局面を「裏表なく」見ることも人間にとっては至難の業なのである。

愛はどこへいった

 とはいえ、「表」の世界では絶大な人気を誇る△4四銀型四間飛車の、「裏」にまわったとたん、私の調査での別人のような不人気ぶりはどうだろう。「裏表」がありすぎである。その理由を少しだけ素人なりに分析してみれば、

  • 先手陣が、ふつうの「振り飛車穴熊」と比べて有利な点が多い(飛車先の歩が伸びている、通常6七にいる銀が5七にいて玉が堅い、左の桂も7七に捌ける)。
  • 後手陣が、ふつうの居飛車左美濃に比べて薄く見える。それは右の銀のせいではないか。通常は5三が定位置だから、6四に出た形がそっぽに見えてしまう。

 つまり、裏返すことで、先手は長所が強調されるのに、後手は短所が目立つ仕組みになっているということだろうか。

 素人にこんなゴタクを並べられても四間飛車党の方は不愉快なだけだろう。

 それでは、1図をプロに見せて見解を聞いた。確認映像をご覧に入れよう。

 野島崇宏三段は、厳密にはあと一息でプロというべきだが、「弁護人」としてはうってつけである。なぜなら彼は、△4四銀型四間飛車を恋人のように深く愛しているからだ。当然、その「裏」の姿を見せられても愛に変わりは―。

「先手必勝に見えます」

 なんと、そこには愛はなかった。

 やがて仕掛けに気づくと、彼は浮気がばれたときのように身悶えしまじめた。

「ああっ、そうかあ!おかしいなあ、これだと全然いい形に見えない……」

 は、もとの局面を私が盤に作ると、こんなことがあるんですね、といいながら、ばしっ、ばしっと4四の銀に空打ちをくれ、うっとり目を細めるのだった。恋人の別の顔に気づいた青年は、何物にも動じない強い愛を育み、野島流四間飛車をまた一つ成長させることだろう。

 さて、次はいよいよ「真打ち」の登場である。プロのイビアナ党も震え上がる、△4四銀型四間飛車の当代最強の使い手といえば、この人しかいない。

目に見えない有利さ

―では、お願いします。

 私が盤上にせっせと”罠”をこしらえている間、スポーツ新聞を読んでもらっていた鈴木大介八段を呼び、1図を見せる。待ちに待った瞬間である。

「ひと目、ゼロ秒で、先手よしです」

 私の頭の中で「へぇ」の大合唱が起こるのと”罠”に気づいた鈴木八段が「あっ」と顔をしかめるのが同時だった。だが次の瞬間、八段は重大な指摘をする。

「これ、手が合ってませんね」

 ああ私は、後手に△3三桂の一手を入れ忘れたのだ。舌打ちしつつ桂をはねる。

「うん、これなら難しいでしょう。―ん?」

 今度は慎重な口ぶりだった。

「やっぱり先手作戦勝ちに見えます」

 降参、という順になった鈴木八段は、1図を真剣に検討しはじめた。

「裏返しにしえみると、後手の玉の整備が遅れているのが目立ちます。せめて△1四歩と△2四歩が入っていないと互角に見えない。いいかえれば、次に後手はそう指すのが急務で、私は実戦では△5五歩も必ず読んでしまうんですが、それは悪い手だということがわかりますね。

 反対にいえば、先手はここで後手に仕掛けさせて、陣形の有利を活かしたい。

 居飛車党がここで▲5九角と引くのは、その意味なんですね。私にはとてもいい手には見えませんが、次に▲8六角を見せて△5五歩を誘っているのがわかる。

 1図、私が先手なら第一感は▲1六歩、あとは▲4八金引くかな。でも実戦では、どちらも居飛車党に指されたことがない。△1四歩との交換は、後手のほうがかなり得だからなのでしょうね」

 鈴木八段は、しきりに瞬きをしている。

「それにしても裏返しは見ていて気持ち悪い。酔いますね。それに、手が全然、見えてこない。裏返しで指したらアマ四、五段の方にも平手で負けそうです。プロとアマの差は、読み以前の感覚の部分が大きいんですが、それがなくなる」

 鈴木システムの本家が、裏返しにすることで確認した△4四銀型四間飛車の”心”は、ぜひ読者にもお伝えしたい。

「手が見えなくなるぶん、大局が見えてきますね。不利に見える四間飛車(後手)側が、実際に戦える理由。それは目に見えない有利さ、つまり陣形の進展性しかないんですね。玉形を厚くして、△5三銀なども考えていくべきで、攻めを急ぐのは愚策だと、よくわかります。あと、気がつくのは、振り飛車党ならなにげなく指してしまう△9二香が、この局面では飛車を狭くして大悪手だということです。奨励会員がこんな手を指したら、プロを断念しろといいたいくらい」

 ついに鈴木八段は、飛車と角を入れ替えた初形を並べて研究しはじめた。

「初手▲3六歩に対して△7四歩とすると、何かやられそうで怖い(笑)。ふだん、いかに定跡に守られ、自分の頭で考えずに指しているか、ということですねえ」

100個の基準

 確認映像の最後はやはり、「裏返し」の元祖(?)、佐藤康光棋聖に登場いただかねばなるまい。1図を見せる。

 居飛車、と棋聖は答えた。おおっ後手?新パターンを期待した私に、しかし、

「先手ですよ。だってこれ」

 やはり元祖は、一瞬で見抜いていた。

「ええ、いまでも相振り飛車を調べるときは裏返しに並べています。だいぶ、感覚に慣れてきました。ただ、石田流の形はまだ慣れません。あれの裏返しって、相居飛車ではありえない形だから(笑)。でも、裏返しといえばいちばん違和感を覚えるのは、相振りよりもこの形です」

 と棋聖が作ったのが、2図である。

トリビア2

「さすがに、この後手の形だけは……。銀がこんなそっぽに行くなんて、読む以前に感覚で悪形と切り捨てそうです」

 たしかにひどい。だが実際には、何万局指されたかわからない戦形である。

「つまり、悪いと即断してしまいそうなところに新しい可能性があるといいたいんです。藤井システムや8五飛のように。それには感覚による歪のない、正確な形勢判断が必要です」

 いかにも悪く見える1図や2図の後手が「指せる」と判定できるような?

「つまり形勢判断の基準をいくつ持っているか。よくいう駒の損得とか玉の堅さとかのことです。プロなら少ない人でも基準を10個は持っている。多い人は、実際に100個は持っています。羽生さんの強さの秘密も、一つはそこになる」

 100個!? 驚愕の「補足トリビア」が出たところで、今回は終わりにしたい。

 読者もひとつ裏返しに並べて、画期的新戦法の開発に挑んではいかがだろうか。ただし妙に気分が悪くなるのでご注意を。

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山岸浩史さんは講談社の編集者。

9月に行われた将棋ペンクラブ大賞贈呈式には大川慎太郎さんのお祝いに駆けつけて来られていた。

その時に、山岸さんと「盤上のトリビア」を話をした。

「盤上のトリビア」は将棋世界に14回連載されており、2005年には当時アマチュアだった瀬川晶司五段のプロ編入試験実現のきっかけ作りもしている。

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「盤上のトリビア」の著者紹介欄には、

山岸浩司
出版社に勤務しながら終身刑に処せられ通信対局指し放題となる日を夢見る将棋バカ。趣味は中井広恵女流三冠の歓心を買うこと。

とある。

山岸さんとは新宿の酒場「あり」で遭遇することが多かった。

2004年のある日、中井広恵女流六段の名刺を持っていた私は、山岸さんに、「この中井女流六段の名刺、値段が5,000円と言われたら買いますか?」と聞くと、躊躇なく「買います」の返事。

もちろん、売るわけにはいかなかったが、この頃の山岸さんは中井女流六段の名刺は持っていなかったのかもしれない。

そして翌年、将棋ペンクラブ大賞一般部門の大賞が中井広恵女流六段、佳作が山岸さん。

贈呈式で山岸さんは中井女流六段の隣に座ることになる。

記念写真も隣。

この時の山岸さんは本当に嬉しそうな顔をしていた。

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