バナナから始まった友情

近代将棋1988年6月号、湯川博士さんの書評エッセー「不滅の名勝負100」より。

 将棋ファンが将棋界をながめる時、どうしても自分の生き方を重ねて見ることになる。そういう意味からいうと、今中年のファンは重ねるべき対象が少なくて可哀想である。

 10代20代の若者に制圧された将棋界で、わずかに気を吐いているのは、中原名人、真部新八段、B2へ昇級の滝六段くらいであろうか。真部、滝のご両人は、長い中だるみのあとのランクアップで、これはたいへんな偉業である。

 中年になってランクをひとつアップする―これはいかに難しいか。どんな職業に当てはめたって、中年諸氏には胸に突き当たる所があろうというもの。

 将棋の本を見る時も自分と重なり合う部分が多いほど、楽しさも倍増する。

『不滅の名勝負100』は、大人の将棋ファンがジックリとつきあえるつくりになっている。

 古今の名棋士が、いろいろな因縁で激突するさまや、悲運強運が織り成すドラマを棋譜とともにギッシリと詰め込んである。それからまた、案外知られていないエピソードを見つける楽しみもある。

 昭和15年の春。第2期名人戦が木村-土居の対戦で幕開けしたが、その時に誰も予想だにしないハプニングが起きた。

 名人戦第1局の先後について、主催紙大阪毎日から、「名人に敬意を表して挑戦者先番で指して欲しい」という申し入れがあった。

 名人戦の運営にたずさわる将棋大成会幹事長の金子金五郎もこの案に賛成だった。というのも、挑戦者土居にとって先番は有利だし金子は土居の弟子なのだ。

 ところが思わぬ人物が異を唱えた。

 なんと当の土居市太郎である。

「勝負は気合いのもんじゃ。公平な振り駒にしてくれ」と一歩も退かぬ構え。ついにこの主張が通って、以来タイトル戦はすべて振り駒になったという。

 ルールは人がつくる見本である。

 昭和29年の名人戦では、時間切れ負けという珍事が発生。起こしたのは升田幸三挑戦者。局面は終盤で升田有利。

 記録係が「1、2、3……10」といった瞬間、大山名人はアッといって記録係を見る。つられて升田も見て「時間切れたか」と聞いた。

 記録係が「はい、少し」と答えるや、「それじゃ負けだ」と升田はさらりと駒を投げてしまった。

 切れたか、と聞かれて記録係が「はい、少し」という所はなんとも可笑しい。記録係としては、切れたかなどと聞かないで欲しい。黙って指し続けて欲しかったろう。

 升田には史上初の三冠王や名人に香落ちで勝つなど天才的な面もあるが、大ポカでタイトルを失ったり、事件を起こして出場停止になるなど軽率な面もある。どちらにしても動きが派手で大向うを喜ばす棋士である。

 升田より小つぶだが、世間をあっといわせたのが、森雞二の剃髪事件だ。

 昭和53年、名人戦が朝日から毎日に移ってすぐの記念すべき対局の第1局目。観戦記者に作家の山口瞳氏を迎えての大一番だ。

 当日朝定刻に入ってきた森挑戦者は修行僧のごとく青々と頭を剃り上げていた。立会人の大山十五世名人が異様なムードを柔らげようと、「坊主が二人になった」とジョークをいい、花村九段も「坊主にするなら、私に仁義を切ってくれなきゃ困るね」と笑わせるが、中原名人と森挑戦者の表情はこわばったままだった。

 この時の観戦記を、山口瞳氏は二通り書き、「紙面に合うほうを選んで欲しい」と言ったそうな。おそらく硬軟二本書かれたのだろうが、直木賞作家がそこまで気を入れて書いてくれたというのも、剃髪事件があったればこそと、思う。

 昭和31年5月仙台。

 塩釜(宮城)の天才少年中原誠(8歳)と八戸(青森)の天才少年池田修一(11歳)の対戦があった。大勢の将棋ファンが見守る中での大熱戦の結果、池田少年が勝った。

 対局後外へ出た中原少年は、池田少年が買ってくれたバナナを食べた。後の中原名人は、「その時のバナナの味は今でも覚えている」と語る。

 昭和31年のバナナは超高級品で、ふつうの家庭の子供は遠足か運動会でしか食べられない。11歳の少年が8歳の少年に買い与えるというのも、相当凄いことだ。今ならば金持ちの子供がマスクメロンをおごるような感じだろう。

 このエピソードを読んだ時、「あっ」と声が出そうになった。それはあるエピソードと火花を散らして結びついたからである。

 池田修一少年は15歳でプロ入りし順調に昇級して行ったが、三段に昇った時突然病魔に襲われた。当時結核は絶対安静しか手がなく、池田三段は涙を飲んで故郷に帰り静養をすることになった。一緒に奨励会に入った仲間はどんどん棋士になって上がってゆく。自分はいつ退院できるかわからないベッドの住人。

 その焦燥感たるや、たまらないものがあったろう。

 暗い青森のベッド生活で、唯一の光が仲間だった棋士からの定期便だった。その励ましに力を得てか、何年か後に棋界に復帰し念願の棋士にもなれたのである。

 この定期便の主の名前と、棋士池田修一の結びつきがどうもわからないままであったが、これが氷解した。

 このバナナのエピソードは、「中原の自然流」(東京書店)という古い本に出ていたのを、担当執筆者の横田氏がすくい上げてこのページに使ったものである。

『不滅の……』は20数人の執筆者が出版社から分担を決められ資料を与えられて書いたものである。(かくいう私もその一人)しかし実際の執筆に当たっては、各自が各自の資料を豊富に駆使して書いている。この貴重なエピソードもそうした努力のひとつである。

 本書は、20数人のライターが、手に入る限りの資料、頭に詰まっている沢山のネタを駆使した文章で出来上がっている。

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たしかに、昔はバナナは高級果物の雰囲気があった。

調べてみると、1963年のバナナの輸入自由化が実施されるまでは、バナナ1本が現在の貨幣価値に換算して1,000円もしていたと言われている。

1950年前後のデータだが、コーヒーが20円の時代にバナナ1本が40~50円。昔ながらの喫茶店のコーヒーの値段の倍以上していたということは、現在に置き直して考えてみれば、たしかに1,000円を越した金額だったと言える。

バナナの自由化後は、現在に至るまでほとんど値段が変わっていない。

総務省統計局家計調査年報によると、バナナの1kg当たり単価は1960年で218円、2014年が245円。

ちなみに、りんごは1960年の1kg当たり単価が77円で、2014年は405円、みかんは1960年が100円で2014年が347円。

バナナが卵とともに物価の優等生と言われる所以だ。

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そういう意味では、昔はパイナップルも高級感溢れる果物だった。

目の前に現れるパイナップルはいつも缶詰ばかり。パイナップル本体が家庭でも一般的になるのは1970年代になってからだった。

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映画「男はつらいよ」シリーズで車寅次郎がバナナの叩き売りをやるシーンガ出てくるが、バナナの叩き売りは、傷がついたものや、痛む寸前のものが売り物となっていたという。

バナナが高級品であった時代だからこそ成り立つ芸で、バナナの安い今の時代には難しい販売方法だ。

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元近代将棋編集長の中野隆義さんによると、大山康晴十五世名人は、熟しすぎて黒くなったバナナが大好物だったという。

また、加藤一二三九段は、対局中に十数本のバナナを房からもがずに一気に食べたという伝説を持つ。

バナナ自由化以前の時代から活躍していた棋士は、それぞれのバナナへ対する思いを抱いているのかもしれない。

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池田修一少年と中原誠少年の話は、また別に紹介したい。