将棋世界1984年1月号、谷川浩司名人(当時)の自戦記〔全日本プロトーナメント 対福崎文吾七段戦〕「久々の谷川流」より。
9月1日、名将戦で有吉九段に負け、4連敗を喫する。どうも、名人位を獲得してから不調である。
終わってから例の如く、脇五段、神吉四段と飲みにゆく。その時に、脇君に言われた言葉―、「最近、消極的になっているんじゃないですか」。その通り、その日の将棋は、勝負は別にして、「谷川流」が全く出なかった。やはり、名人になって、受けて立とう、という気が強すぎるのか。
脇君は、不調の時に的確な指摘をしてくれる、有り難い親友である。
(中略)
2週間も対局が空いてしまった。福崎七段との一局。この棋戦は、一局勝つごとに賞金が増えてゆく。
福崎さんも、最近やや不調のようである。もっとも、福崎さんの場合は、理由が明確であるから、落ち着かれたら、また「福崎流」の力強い将棋が復活するに違いない。そうでなければ、同じ関西棋士として、困るのである。
不調同士の戦いとなってしまったが、ライバルとなれば全く別。過去2勝5敗、と痛い目に遭っているので、絶対勝つつもりだった。
先番、福崎さんの作戦は、5筋を交換してからの穴熊。得意戦法の一つであろう。
(中略)
福崎さんと睦美さんの、大阪での結婚披露宴に出席させて頂いたが、福崎さんらしい自由奔放な宴で、非常に楽しかった。
私が祝詞で、二人の結婚について「福崎さんの将棋と同じで、序盤・中盤がなく、ただ寄せが早いだけ」とふざけたのに対し、「序盤、中盤は、短いけれどありました。それから、寄せたのではなく、寄せられたのです」と真面目に答えられたのには、笑ってしまった。でも、寄せられた、なんて言っても良いのでしょうか―。
それはともかく、奥さんはこの日も連盟に来ておられ、対局が終わってから、連れ立って帰られました。やはり羨ましいですね。
(中略)
4図以下の指し手
▲5二歩△同飛▲6四歩△同金▲5六金(5図)▲5二歩~▲6四歩。手筋である。が、ノータイムでの着手は、「感じ」で指してきているなと読み取り、怖がらずに全部取った。こんな難しいところでノータイムで読み切られてはかなわない。
とにかく二歩得になったので、相手より優っている要素もでき、少しホッとした。
果たして17分の長考。福崎さんに誤算があった、はずだが、後から考えるとちゃんとつじつまが合っている。▲5六金が強烈な勝負手。この、覚悟を決めた攻めに、しびれてしまった。
もどって、▲5二歩では全てを含みに残して▲5八金もあった。
▲5二歩△同飛に、▲4五金△同金▲6三角は、△8二飛▲4五角成△5七金で、これは少し無理。
5図以下の指し手
△6七歩▲同飛△6六歩▲同飛△6五歩▲4五銀△6六歩▲5四銀△同飛▲4五金(6図)福崎さんの誤算は、歩がちょうど足りることだが、△6五歩の時に▲4五銀が用意の一着。17分は、飛損にためらいを感じた時間であろうか。
この人間ばなれ(?)した手が、穴熊将棋の凄さというか、福崎将棋の妖しさ、というか―。
こんな手で負けてはたまらない、と半ば腹を立てながら考えていたが、なかなか受け切ることができないのである。
ふと顔を上げると、隣で対局をしている脇君がニコニコしながら盤面を見ている。
(福崎さん、やってるな―)考えてみれば、昔は私も、このような攻めで勝っていたのかもしれない。
6図以下の指し手
△5三飛▲8六角△6七角▲4六歩(7図)6図で△5二飛は、▲4四歩△同金左▲同金△同金▲4五歩△4三金▲4四銀で、押し潰されてしまう。で、△5三飛だが、これとて自信は全くなかった。
(中略)
7図以下の指し手
△5六角成▲6四角△6三飛▲5五金△3八銀▲同金△同馬▲3九銀打△7四馬(8図)7図。ここは難しいところである。△6九飛は、▲6四角△6三飛▲8六角で、▲5九歩が残って攻め切れない。また△7五銀打も、▲同歩△8五歩▲5九角え、何と▲2六角と出られてしまう。
△5六角成も良くなかった。▲6四角△6三飛に▲5五金がピッタリである。
こんなはずがない―。目が見えなくなって打った△3八銀。読み筋などなく、気迫だけだったが、これに福崎さんが押された。
△3八銀に、▲5六金△3九銀不成▲同銀△6四飛▲5二銀なら、▲7五角や▲5五角の含みで、受け切れなかった。
3九の金が銀に変わって、楽しみができた。再逆転の伏線である。
8図以下の指し手
▲5二銀△6四飛▲4一銀打△2二玉▲6四金△2九馬▲同玉△4二金(9図)△7四馬と引く時に、この変化だけは絶対に勝てる、と思っていた順に、福崎さんが魅入られてしまった。気が付きにくい筋かもしれない。△2九馬▲同玉△4二金。久々に出た「谷川流」の一発狙いである。
8図では▲6五歩が最善で、これなら勝てなかったと思うが、▲5二銀打からも、△6四飛に、▲4三銀成△同金▲6四金△同馬▲3三歩△同玉▲6一飛なら難しかった。
9図。もう時間はいらない。寄せの早い福崎さん、瞬時にして負けを悟ったようである。終局まで、早かった。
9図以下の指し手
▲8二飛△5九飛▲3八歩△3六桂▲3七角△4八角まで、104手で谷川の勝ち
(中略)
それにしても、と思った。私の方に、簡明な勝ち筋があったのか。いや―。とすると、6図では良くない、ということなのか。
福崎さんの、大局観の正確さを、勝ちはしたが、改めて感じた一局だった。
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5図から6図に至るまでの間に指された▲4五銀が、谷川浩司名人(当時)をして「人間ばなれした手」と言わしめた豪腕の一手。
たしかに、これなら中盤からすぐに終盤に突入してしまう。
福崎文吾七段(当時)の真骨頂とでも言うべき展開だ。
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谷川浩司九段と福崎文吾九段の奥様の睦美さんは、1972年、NHK教育テレビの子供の日の将棋番組(将棋の番組が初めてカラーで放映された時)で対戦している。谷川九段が小学4年、睦美さんが中学2年の時のこと。