将棋世界1995年12月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢」(羽生善治竜王・名人)より。
後手にはハンディがある
この1年間のタイトル戦を振り返ってみると、羽生は実に多彩な戦法を指している。
例えば、谷川との王将戦は第1局がひねり飛車で、第2局以降は全局矢倉。森下との名人戦は先手番のときは矢倉で、後手番のときは振り飛車中心。郷田との王位戦も名人戦とよく似たパターンだ。
かと思うと、米長との名人戦では中飛車、角換わり、相掛り、横歩取り、矢倉……と一局ごとに戦法を変えている。
オールラウンドプレーヤーだから、こんな芸当ができるのだが、それにしても驚くべき持ち駒(戦法)の多さである。
羽生は相手によって、あるいはタイトル戦によって、意識的に戦法を使い分けているように僕には見える。この使い分けは、いかなる理由によるのか。
―羽生さんはタイトル戦ごとに「今回はこれでいこう」と、自分にテーマを課して戦法を選んでいるのでは?
そのときのテーマみたいなのはありますね、やっぱり。例えば矢倉の▲3七銀に興味を持っているとか、あるいは角換わり腰掛け銀や相掛りに興味を持ってるとか。そういうのと、あと戦法の形勢ってあると思うんですよ。
―戦法の形勢?
ええ。例えば矢倉の先手番・森下システムの現在の形勢とか、後手四間飛車の現在の形勢とか。そういうのと自分の興味、相手の棋風……と、総合的に考えて戦型を選んでる感じですね。勝負としては、後手番のときにどう戦うか、というのが本当に大きなテーマです。
―羽生さんは後手番は指しにくいと思ってるんですか。
つらいですね、やっぱり。実際の勝負はわかんないですけど、序盤の出だしのところで全部、先手についていくとなると、つらいです。後手番というのは、持ち時間を1時間ぐらい多く消費しなければいけないようなハンディを背負っているようなもんなんですよ。だって向こう(先手)は事前に家で研究して、うまくやって来ているのに、こっち(後手)は盤の前で1時間も考えて、5時間の持ち時間なのに4時間でやんなくちゃいけないみたいなもんじゃないですか。五分の分かれでも、その1時間の差がつらいというのはあるかなと……。
―なるほど。
だから、それだったら後手番でも振り飛車をするか、という気にもなりますよね。振り飛車だったらある程度、定跡化されてるから最初の駒組みだけは楽と言えば楽なんですね。楽といっても王様を△7一玉と囲うまでですけど。
―後手番でも主導権を取りに行こうとは思わないですか。
いま、後手番で主導権を取りにいく戦法は、だいたいダメですね。無理がありますから。だから普通についていって、先手番の得が生きないような指し方……例えば持久戦模様になれば得が生きないでしょう。あるいは先手が一手早く指しているために形を決め過ぎてるとか、そういうのをとがめるような指し方でないとダメのような気がします。
―先後の差を利用するわけだ。
そうです。振り飛車は、局面が長引けば、それなりに堅さとか発展性は優れているから、そういうところでやりやすい戦法の一つですね。自分で何局かやってわかりましたけど、振り飛車も矢倉をやるのと同じくらい大変ですね。相手は急戦があって、左美濃があって、穴熊があって、5筋位取りも玉頭位取りもあると。振り飛車側はそれなりに全部、対応策を考えておかないといけないから大変ですよ。ただ振り飛車というのは、なかなか具体的に良くならない。形勢の良さを実感できない戦法ですね。そこが居飛車と決定的に違うところですね。
―へーっ、そうなんですか。
なんか自信ないなァ、自信ないなァと思いながらずっと指してて、終盤近くになってようやく「少し良くなったかな」と思えるような戦法なんですよ。だからストレスもたまりますよね。
―居飛車は良さを実感しやすいと。
自分が仕掛ける権利を持ってるわけですから。ただ右側で有利に進んでも、よくよく終盤まで読んでみたら、なんかおかしい、いい勝負だな、というような感じはありますけどね。だから実際はいい勝負なんでしょうけど。
―相居飛車の場合はどうですか。
矢倉の後手番でも、先手にちょっとおかしいところがあれば、「これはもう先手番の得を生かしきってない局面になった」とか、「五分に近くなっている」と実感できるときがあるんですよ。
ただ実際問題として後手番で矢倉をやると、自分の王様の近くで受け一方の展開になることが多いから、現在の技術からいくと、すごくつらいことですね。もしトーナメントで後手番しかできないと言われたら「将棋をやりやくない」という人がけっこういると思いますよ(笑)。
―将棋は先手が有利だと思いますか。
いえ、そんなことはないですけど。ただ人間同士がやれば、先手が有利になりやすいでしょうね。
―もしハブ・ヨシハルが二人いて、その二人が戦えば先手が勝ち越すでしょう。
少し勝ち越すでしょうね。先手は逃げ切れるということがあるから。
(つづく)
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2015年度の先手番での勝率を、非常に局所的にではあるが、調べてみた。
先手番から見て、
タイトル戦は15勝19敗。勝率は0.441。
A級順位戦は22勝23敗。勝率は0.489。
B級1組順位戦は39勝39敗。勝率は0.500。
NHK杯戦は29勝20敗。勝率は0.592。
全対局で集計しなければ、2016年度の先手番での勝率は何とも言えないところだが、持ち時間別あるいはリーグ戦・トーナメント戦別あるいは戦法別のような分類でそれぞれ集計するのも意味のあることかもしれない。