郷田真隆棋聖(当時)「それだと切ないですね…」(後編)

将棋世界1999年8月号、産経新聞の保坂勝吾さんの第70期棋聖戦五番勝負第1局〔谷川浩司九段-郷田真隆棋聖〕観戦記「郷田、謎の大長考」より。

 長身の谷川は、約束の時間通りに伊丹の大阪空港搭乗手続きのカウンターに現れた。五番勝負での同行は、5年ぶり。左手に旅行バッグと、右手には和服を入れた大型ケース。前と少しも変わらない。帰りも、この和服ケースは宅配便で送ることはない。和服の少ない囲碁の棋士には、すべて荷物は宅配便ですまし、手には何も持たない主義が多いようだ。

 和服が高価であるというだけでなく、盤上の孤独な戦いに臨む棋士にとって、正装した和服は自分の大切な分身でもあり、限りなくいとおしいものなのかもしれない。

(中略)

 だが、名人戦だけでなく、竜王戦や王位戦でも勝ちまくっているだけに、疲れはピークにさしかかっているはずだ。東京組より早く遠野市の「万里の里・一位の館」に着くと「少し休みたいのですが」と谷川九段。ホテルと違って、今回は古い”南部曲り家”を再現した館での対局とあって、別棟の離れに宿泊してもらう。

 東京組が到着。郷田棋聖とは、棋聖になって関西で対局することがなくなったので、去年の夏以来の再会だが、顔色もよく元気そう。郷田棋聖も王位リーグのプレーオフなどがあって忙しかったはずだが、対局場の下見のあと、陶芸の指導を受けて、抹茶茶碗をふたつも作って嬉しそう。土に触れ素直に喜べる少年のようなとことがうらやましい。

 前夜祭では、郷田棋聖が「7年前は谷川さんに2期連続して挑戦して負かされました。でもあれから私もタイトルを取りA級八段になって新たな気持ちで五番勝負に臨みたい。自分なりにいい将棋を指したい」と自信をのぞかせれば、谷川九段は「今は20代棋士が強い。特に棋聖戦は三浦、屋敷、郷田とこのところ歴代若い人ばかり。私も、ここのおいしい空気と美しい緑に鋭気を養い、がんばりたい」とあいさつ、指し盛り30代棋士の心意気を見せて会場をわかせた。

 花束を受け取って壇上で笑顔を見せる両対局者に、自信と誇りを感じた。

 対局は茅葺き屋根の館の馬屋を改良した書斎で行われた。和服姿の両者。合わせたように、同じような白っぽい夏向きの羽織姿は涼やかだ。

 阿久津主税三段の注目の振り駒は、と金が3枚出て谷川の先手番。▲7六歩と第一着が指され、写真撮影用に3回ほど繰り返し、見学のファン、カメラマンなど退席。

(中略)

 郷田は4手目△8五歩とのばし△7七角成▲同銀と角換わりを堂々と受けて立つ。やはり「谷川の得意戦法に勝たなければ、五番勝負は気合いで負けてしまう」。A級八段、棋聖位という自信と誇りが、郷田に角換わりを選択させたか。まだ午前中だというのに、色白の郷田のほおが赤く火照っている。

 谷川はタイトル戦の途中、よく控え室に顔を出す。この日も一度、母屋の板間に顔を見せたが、早くからつめかけた大盤解説と指導対局のファンに占領された賑わいを見て対局室に戻った。このあと、谷川が控え室に現れることはなかった。郷田の表情に「何かありそう」と、ただならぬものを予感したに違いない。

(中略)

 一見のどかな炉端検討だが、昼の休憩が近づくころ、「あれあれ、これは何かおかしい」と、立会人の富岡英作七段らが騒ぎ出した。

 いつの間にか先後同型の相腰掛銀の形に進んでいるが、この形は先手が仕掛けたあと優位に立つとされているので、最近は後手でこの形にするケースはあまり見られないというのだ。

 このため、34手目の△7四歩では△6五歩と位を取って変化に出ることが多いという。それなのに、郷田は平然と△7四歩から△7三桂。

「これは郷田が、私には研究してきた秘策がありますよ、と意思表示したもので、さあ、谷川も怒った。受けて立ちましょうと▲2五歩です」と富岡七段の解説も力が入って講談調になる。

 △3三銀(2図)で、まったくの先後同型となり、昼食休憩に入った。

郷田谷川1

「いったいどこで変化に出てくるつもりなのか」

 再開後も、谷川は口をとがらせ、両手を袴に突っ込んで前傾姿勢のまま盤上をにらむ。昼の休憩をはさむ27分で恐れることなく▲4五歩と仕掛けた。「来るなら来い!」という気迫がこもる。

 郷田の手が止まったのは谷川が1筋と7筋の歩の突き捨てを入れて2筋の歩を切ってから▲2九飛と引いたあと。

 モニターテレビを見ていたファンが「あれ、静止画像になっちゃった」とつぶやく。

郷田谷川2

 炉端の検討では、▲7四歩を防ぐ△6三金がほとんど定跡化しているという。だが、▲1二歩△同香▲1一角△2二角の一直線の変化があり、先手の攻めがなかなか切れない。

(中略)

 ”静止画像”が2時間近くになって、富岡七段は立会人として対局室を覗きに行ったが、「まだ、指しそうにない」と手を振って戻ってきた。

 パソコンの検索では、このあと△6三金以外の手はほとんど見あたらなかった。

「ここで素晴らしい新手が出れば、角換わりの革命です」

 午後からの大盤解説で富岡七段は興奮気味に説明する。

 正立会人の大内延介九段が「おそらく郷田棋聖は、頭の中の図書館に詰まった資料を総動員しているのでしょう。それではここで次の一手にしましょう」と、問題を出していた。

 郷田の大長考に、ふと昔のことを思い出した。永松大先輩のお手伝いで、初めて将棋の観戦記を書いたのが、関西将棋会館での南芳一九段と新四段の郷田だった。「新人ですのでよろしく」と挨拶すると、「こちらこそ。観戦記を書かれるのは、僕も初めてです」と言われ、逆にこちらが緊張をほぐしてもらった。

 このときも、郷田は序盤から長考を繰り返し、扇子をぱちんぱちんとやりすぎて、終盤はぼろぼろになっていた。秒読みに追われながらの終盤は迫力満点。夕食休憩なしで指し継がれて、土壇場で逆転してしまった。

 その後谷川棋聖に連続挑戦したときも、序盤からの長考好きは変わらなかった。「頭の中で、駒が勝手にどんどん動いていくんです」という本人の話を聞いて、なるほど棋士の頭の仕組みは違うものだと感心したことがあった。

 しかし、やはり終盤で時間がなくなればミスも出やすくなる。時間配分も大切で、最近は序盤からの長考は少なくなったと聞いていたが、なんとこの大一番で見せてくれるとは。

 午後3時45分。郷田の長い指が駒台の角をつまんで△3八角(3図)と打ち込んだ。2時間28分の記録的な大長考だった。

「桂損覚悟の強手です。新手が出ました」と、大内九段が発表すると、ファンからは「おおっ」というどよめきが巻き起こった。

 何と、ファンの解答者の中に正解者が5人もいた。「この方たちは郷田さんと同じくらい強い人です」と大内九段。「よく考えてみれば、攻めるとすればこの一手か」と富岡七段。さらに「それにしても一手に持ち時間5時間の半分を使うとは。研究してきた手を指そうとして、確認作業の中で何か不都合が起きて新たに編み出した手なのか。分かりません。謎です」と首をひねった。

郷田谷川3

3図以下の指し手
▲2八飛△4九角成▲7四歩△1六歩▲7三歩成△8一飛▲7二と△4一飛▲7四角△4二飛▲6七銀(4図)

 次の一手の正解者がもう一人いた。それは対局相手の谷川だった。「△6三金以外の手は△3八角しかないと思った」そうだ。郷田が長考しているとき、谷川も△3八角からの変化を読んだ。席を立って控え室を訪れることもなかった。同じように読み切って「悪くならないはずだ」という確信にちかいものをつかんだのだ。

 郷田の新手は、桂損に目もくれず、馬を作ってじっと△1六歩と端歩をのばして飛車をいじめようという構想。

 だが、61手目▲7四角から▲6七銀(4図)の二手一組の攻防の妙手が飛び出した。

郷田谷川4

4図以下の指し手
△4三金右▲2九飛△5八馬▲同銀△7二飛▲7五歩△1七歩成▲3四歩(5図)

 次に▲2九飛で馬が捕まってしまう。△1七歩成▲2九飛△1六馬と逃げることはできるが、▲2六桂が厳しくじり貧になってしまうという。

 仕方なく馬を切って、狙いの△1七歩成と、と金を作ったが▲3四歩(5図)が「堅実で自然な手」と控え室の評判はよかった。

郷田谷川5

5図以下の指し手
△1八と▲8三角成△4二飛▲1八香△同香成▲2五飛(6図)

 ▲2五飛(6図)と浮いて桂のヒモがつき「勝負どころをなくしました」と局後の郷田。このあと△1四金と守っても「▲1二歩や▲3六桂ぐらいでダメです。▲3三香で投げようかと思いました」と力なく語った。

郷田谷川6

(中略)

郷田谷川7

 投了図からは、△1一同玉は▲2三桂成、また△2二玉と逃げても▲2一金と桂を取られて寄り。

「自然に負かされました」。感想戦での最初の言葉だった。大長考の中身には触れなかったが、指し手の疑問については、まるで勝者と錯覚するほど明るく答え、「指してみたかったので。パソコンを使ったり研究は盛んですが、同じような将棋ばかりになると面白くないですし。もう少し将棋を勉強してきます。体調はいいので、またがんばります」ときっぱり。

 帰りの花巻空港で、谷川はお土産に小岩井農場のクッキーを選んでいた。阪神タイガースの好調もうれしいが、1歳半になる直輝ちゃんの笑顔が何よりの疲労回復剤に違いない。

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将棋世界1999年9月号、谷川浩司棋聖(当時)解説、野口健二さん記の「第70期棋聖戦五番勝負第3局 勢いで制したシリーズ」より。

―第1局は角換わりでした。

谷川 先手になれば角換わりのつもりでした。ただ、最近は後手が早めに△6五歩と突く形が流行なので、先後同型になるとは思いませんでした。5年くらい前までよく指されて、その後全く消えた戦型なので、昔の変化を一生懸命思い出しながら指していました。

―郷田さんが約2時間半の長考で指した△3八角が、無理筋だったようです。

谷川 研究していて指したかった手なのでしょうが、指す前に誤算に気が付いたようです。長考の最後の方は、苦しそうに考えていたので。しかし、1~2時間も考えたら、流れとして指すしかないでしょう。普通に△6三金なら30分以内に指さないとおかしいですから。

(以下略)

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人間同士の対局だからこそ現れるドラマ。

「パソコンを使ったり研究は盛んですが、同じような将棋ばかりになると面白くないですし」とあるが、この当時のパソコンを使った研究は棋譜検索によるもので、対局ソフトを使ったものではない。

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将棋世界最新号の中原誠十六世名人と渡辺明竜王の対談で、渡辺竜王が、

  • 多くの戦型で終盤の入り口まで研究が進んでおり、棋士もそのデータで戦わざるをえない。
  • コンピュータによる研究は誰でもできてしまうので、余計に終盤の入り口まで同じに進みやすい。

と語っており、そのような状況は渡辺竜王も危惧している。しかし、いまさらコンピュータによる研究をなしにするわけにもいかないのも事実。

パンドラの箱が開いてしまったようなことなのだろう。

これからの将棋がどこに向かうのか、本当に難しい問題が内在しているように感じた。

 

 

 


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