「報道陣がいなくなってガランとした控え室では弟弟子が顔をクシャクシャにして泣き笑いの表情を見せていた」」

将棋世界1979年12月号、能智映さん(三社連合記者)の「米長ついに王位を握る ―王位戦七番勝負をふり返って―」より。

 この王位戦に闘志をたぎらせていた米長邦雄棋王が、10月13日深夜、ついに王位を獲得した。45年の七段時代、11期王位戦で当時の大山康晴王位に挑戦してから4度目、とうとう宿願をはたし、棋王に加えて二冠王となった。しかも中原誠名人には8度目の挑戦でようやく一矢をむくいたのだ。

 くわしい事を書く前に、米長新王位誕生の翌日、14日の北海道新聞の大はしゃぎの見出しをご披露しよう。

 まず一面、顔写真入りの四段見出しだ。

「新王位に米長棋王」「”中原四冠”の一角を崩す」、さらに談話の見出しとして、米長「辛抱していてよかった」、中原「力いっぱい指し満足」と続いている。

 そして〔関連記事23面〕となるのだが、この社会面も華やかだ。

「笑顔も”さわやか流”」という三段の大きな写真がつき、見出しは七段だ。「意地の”矢倉”花開く―米長王位誕生」「四度目の挑戦で宿願」、さらにサイドに四段組みで「八局目での決着」、そして下の方には米長の師・佐瀬勇次八段の談話の見出しとして「逆転とは驚いた」とある。

 まさに、山盛りいっぱい。「これでもか!」という感じだが、まだある。翌日の朝刊の「クローズアップ」の欄には、また米長がにこやかな笑顔を見せて「新王位となった米長邦雄」という人物紹介だ。

 全部で何行になるのか、多すぎて数える気にもならないが、とにかく社会面のほぼ半分を埋めつくしているから二百行に近い数字だろう。その中で、ちょっと面白い状況描写があるので紹介しておこう。ただし、この部分は私の筆ではなく、東京新聞のIデスクじきじきのものだ。

「投了後の対局室、米長は、つめかけた報道陣のフラッシュの中で、淡々とした表情で、中原とこの一局を検討する盤面に向かった。報道陣がいなくなってガランとした控え室では弟弟子が顔をクシャクシャにして泣き笑いの表情を見せていた」

 たしかに控え室に、そんな顔の男がチンと座っていた。沼春雄四段だ。実情はこうだ。外で一杯やっていたのだが、気になるので対局場の「虎の門福田家」までやってきた。そして兄弟子の勝利を見る。しかし、少々匂う(アルコールが)ので対局室には入れない。

―うれしいのだが、一人ぽっちで寂しくもあったのである。

(以下略)

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「報道陣がいなくなってガランとした控え室では弟弟子が顔をクシャクシャにして泣き笑いの表情を見せていた」

の文章を朝刊で読んで、 健気な弟弟子の姿に涙が込み上げてくる方も多かったに違いない。

ところが、実際には、能智さんが書いているような事情があった。

対局場の「福田家」は、数々の名勝負が行われた東京・紀尾井町にあった割烹旅館(1995年から料亭となっている)。

沼春雄四段(当時)は、千駄ヶ谷あるいは新宿で飲んでいるうちに対局の様子が気になり、福田家へ向かったのだろう。

顔をクシャクシャにして泣き笑いの表情を見せていたのは、酔っ払いながら感激していたからそのような表情になった可能性も高く、それはそれで非常にいい話なのだが、記事から受ける印象とのギャップがとても面白い。

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沼春雄七段は、佐瀬勇次名誉九段が亡くなって以来、奨励会時代の木村一基八段の実質上の師匠となっていた。

木村八段が王位を獲得したら、この時と同じような表情の沼七段を見ることができるかもしれない。

そうなれば、かなり感動的だと思う。

木村一基四段(当時)「あの恥ずかしく悔しい思いは、今も忘れることができない」