藤沢桓夫さんの『将棋百話』(1974年)より。
約80名を数える現役棋士のほとんどは、小学校を卒業する前後に、先輩棋士のだれかの弟子となり、将棋連盟の「少年棋士養成所」ともいうべき「奨励会」に参加し、ここで技を磨いて昇段の道を進んだ人たちばかりと言ってよい。なかには、早大卒の木村義徳七段や、A級の関根茂八段のように、はじめ東京都の農林関係の公務員で、かたわら「奨励会」にも参加していたのが、将棋が強くなりすぎて、プロになってしまった棋士もいるが、こういう変り種は他に見当らなくなった。
ところが、明治・大正から昭和にかけて活躍した棋士たち、その殆どは故人となっているが、彼らには前職を持っていた者、中年からプロ入りした者が多い。関西だけ振り返ってみても、阪田三吉名人・王将は若いころ堺の魚屋その他奉公先きを転々、苦労しているし、村上真一八段は海員だったし、神田辰之助九段は尼崎の八百屋で、郵便配達をしていたこともあり、上田三三七段は天満で人力車の帳場(後に運送業)を営んでいたし、内藤國雄九段の師匠の藤内金吾八段は島之内のメリヤス屋の大将だった。彼らは将棋が三度の飯よりも好きで、そして強すぎたため、いつか本職を捨て、家人の反対を押し切ってプロになった。
当時は棋士という名称もなく、収入の少ない彼らは「将棋指し」と呼ばれ、「将棋指しは親の死に目にも会えぬ」という格言があったくらいで、世人は「将棋指し」を極道商売のあぶれ者視していたといっても過言ではなく、現在の「奨励会」の少年たちが両親の了解を条件にプロを志しているのと比べると、隔世の感がある。
棋士の社会的地位が向上安定し、それが立派に職業として認められるようになったのは、大新聞がそれぞれに将棋欄を常設し、大掛りなタイトル戦を行うようになった、その結果と断じてよいだろう。
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よくよく考えてみると、新聞・雑誌・テレビ・ラジオのマスコミ4媒体のうち、明治時代に存在したのは新聞のみ。
新聞に載ることが現在よりもはるかに大きな意味を持っていた時代だ。
棋士の棋譜が新聞に掲載されるようになったことが、棋士という職業にとっての歴史的なブレークスルーであったことがわかる。