将棋世界2001年2月号、田丸昇八段(当時)の第13期竜王戦七番勝負〔藤井猛竜王-羽生善治三冠〕第5局観戦記「背水の陣の羽生が棒銀策で一矢を報いる」より。
私は15年ほど前の昭和59年から60年にかけて、奨励会の予備校的機関にあたる「研修会」の幹事をしばらく務めていたことがあった。当時の研修会員たちの様子は、真剣な気持ちでプロ棋士を目指している者、女流棋士と研修会員の二足の草鞋を履いている少女、遊び半分で将棋を指しにきているような小学生などと様々だったが、全般的にはみんなひたむきに将棋に打ち込んでいたと思う。
昭和60年1月に当時14歳の藤井猛少年が入会してきた。藤井は私の兄弟子の西村一義九段の弟子なので、私は甥弟子にあたる彼の戦いぶりをそれとなく気にかけて見ていた。だが正直なところ、上州出身の朴訥な少年という印象しか残っておらず、重苦しい形の振り飛車をよく指していたことは覚えている。なお、当時の藤井の得意戦法は四間飛車ではなく中飛車だったという。
昭和60年3月ごろの研修会の成績表を見ると、入会直後の藤井はC2のランクで負け越しだった。現棋界で若手棋士として活躍しているほかの研修会員たちも紹介してみよう(カッコ内は当時のランクと年齢)。
関東には真田圭一六段(B1・12歳)、行方尚史六段(C1・11歳)、木村一基五段(C1・11歳)、鈴木大介六段(D1・10歳)、関西には増田裕司四段(B1・14歳)、山本真也四段(B2・13歳)、久保利明六段(C2・9歳)、矢倉規広五段(D2・10歳)らがいた。こうして見ると、当時の研修会には鳳雛がひしめいていたことになる。またこれは偶然だろうが、藤井をはじめに真田、行方、鈴木などは、後年に竜王戦で大活躍した。なお藤井と同年齢の羽生善治五冠はそのころ奨励会の二段で、同年12月には四段に昇段してプロ棋士となった。
このたびの竜王戦第5局の立ち会いの役目で対局者や関係者と同行した私は、行きの車中でちょうど藤井と隣合わせの席だったので、この記事の取材も兼ねて研修会時代のことをあれこれ聞いてみた。昭和60年秋に研修会幹事を退任した私は、その後の藤井についてはよく知らなかったからだ。
藤井の話によれば、研修会入会後の成績はあまり芳しくなく、1年近く昇級できなかったという。昭和60年10月に受けた奨励会試験も不合格となった。ところが同年11月から突然勝ち出したそうで、翌年4月まで20勝2敗の驚異的成績を挙げて、C2からAランクまで一気に連続昇級して奨励会入会を果たしたのだ。何でも、苦手にしていた前出の木村などがみんな奨励会に入ったからだというが、もちろんそれだけの理由でそんなに勝ち続けられるとは思えない。藤井の潜在的能力と地道な努力によって、実力が急に伸びたのだろうと私は解釈したい。
藤井は「研修会から奨励会への特例入会制度があって良かった」と率直に語っていた。そういえば研修会で先輩にあたる丸山忠久名人も、奨励会試験を2回失敗した後に研修会ルートで奨励会入会をようやく果たした。
「激辛流」と呼ばれる丸山名人の将棋と同様に、藤井竜王の将棋も勝負に徹した辛い指し方で定評があるが、両者の今日の将棋はもしかしたら研修会時代に味わった屈辱感がバネとなって形成されてきたのかもしれない。
(以下略)
——–
研修会の創設が歴史的に非常な絶妙手であったことが分かる。
藤井猛九段は奨励会2級の頃まで、中飛車か相振り飛車しか指したことがなかったというほどの中飛車党。
現在のゴキゲン中飛車はない時代で、6七銀・7八金型のツノ銀中飛車。
ツノ銀中飛車は、三間飛車、四間飛車、向かい飛車に比べると軽妙と言うよりも重厚なイメージの振り飛車で、田丸昇八段(当時)が書いている通り「重苦しい形の振り飛車」になるケースが多い。
——–
多くの研修会員が小学生で藤井猛少年が中学2~3年であったことも、強い小学生研修会員を苦手にしていた原因とも考えられる。
私の場合の話だが、道場へ行くと、段位は同じなのに相手が小学生というだけで、「ああ、強そうだな」と思って最初から気合い負けをしてしまう。
——–
藤井猛九段が四段になるまでのこと→藤井猛四段(当時)「一人将棋でつかんだ将棋観」