芹沢博文八段(当時)「私は同情をひこうと云う意ではなく、実に可哀想な男だと思う。つまり一度として一所懸命になったことがないのである」

将棋世界1980年4月号、芹沢博文八段(当時)の「四十三歳の記」より。

 私の故郷は静岡県沼津市である。親戚の結婚式に出席のため久し振りに二月の初旬に帰った。

(中略)

 親父は私が来るのを待ち兼ねたように母に酒の支度を云いつけるのであった。兄貴や弟、又、近所に住んでいる妹達の子等が集まり賑やかな席になって行った。酔うほどに昔話になり、中学一年の時の校長、杉山先生の話になった。酒の勢いもあり、電話番号を調べ、「夜分恐れ入りますが……」としたところ先生はもうお寝すみとの奥様の返事である。明日の朝、伺う許可を得てダラダラと酒宴は続いた。

 朝八時に起きると杉山先生の所に送ってくれると云う末弟が既に来ていて、顔だけ洗い親父と車中の人になるのであった。

(中略)

 玄関で案内を乞うと奥様が直ぐお出になり先生を呼んで下さった。先生は私達を見るなり「芹沢さんと博文君だね」と云って下さった。三十年振りの対面なのに、先生は私のことを憶えていて下さったのかと思うと胸に熱いものを感じた。三十年前に将棋指しになると云うことは、とてつもなく危険なことだったのである。食えるかどうかも判らず、今よりはずっと社会的地位の低い職業だったのである。

 そのことを承知で、他人で唯一人、将棋指しになるのを、自分の好きな道に進むのは素晴らしいことだと賛成して下さった方である。

 今でもハッキリと想い出す。中学一年の終業の日、朝礼の時、朝礼台に「芹沢博文君、此処に来なさい」と呼んで下さり、芹沢君は東京へ将棋修行のため一年で君達に別れる。別れると云うことは辛く淋しいことだが芹沢君の前途が輝かしいものであるのを願って拍手で送ろうではないかとの意を云って下さったのである。万雷の拍手、あの感激は忘れようとしても忘れられない。

(中略)

 先生にはくれぐれもお体を大切にと帰途についたが、先生に会えた喜びがあるのにも関わらず気は重くなっていくのであった。三十年間、何をしていたのだろう、昨日があって今日がある、そんな惰性で生きてきて、早や四十三歳、人生の三分の二を過ごしてしまったことになる。残り三分の一を真面目に一所懸命生きてみよう、などと殊勝なことを一っ時思うが、先生にお会いして二十日ほど過ぎたが、やっていることと云えば、チョット仕事して暗くなれば酒を飲み、下品なことをわめいてはゲラゲラ笑い、カラオケでガナっている。

 全然変わらないのである。何時からこんなになってしまったのであろうか、少なくとも三十年前は精神がこんなに荒廃していなかったと思う。八段になった辺りから腐り始めて来たのだけはハッキリしている。Aクラス二年目、最終局で今は亡き塚田先生とぶつかり負けた方が陥落と云う一番があった。この対局の日の朝、名古屋にいたのである。一宮の競輪ダービーに遊び、昼は競輪、夜は酒にバクチとすさみにすさんでいた。対局には飛行機で飛んで来て間に合ったのであるが、こんなことで勝てるわけはない。それでも反省するどころか「なあに、一年で又戻ってくるさ」そして名人でも取って面白可笑しく生きてやろうと思っていたのであるから何処までバカか判らない。それからもう十五年も経っている。

 私は同情をひこうと云う意ではなく、実に可哀想な男だと思う。つまり一度として一所懸命になったことがないのである。酒を飲んでも、バクチをやっても、女を抱いても、何時でもいい加減なのである。恥ずかしいことであるが将棋を指しても一所懸命になれないのである。何故だろうかと今考えると、ちょっとばかり、八段になる程度の才能があったために何でもいい加減になってしまったようである。なまじの才能は人を、その一生を、かけがいのない一生を駄目にすることがあるらしい。しかし将棋指しになって喜びに思うことは二上さん、米長君、内藤君、板谷君などの良き友に恵まれたことである。素晴らしい男達である。単に将棋が強いだけの者ではなく豊かな人間性に加えて努力家である。羨ましくてならぬ男達である。

 中原君のことは何故か友達と思えない。誤解されぬために書くが彼を憎んでいるとかそんなことはない。友達と思えぬ原因は、私が彼のことを羨み、それがわずらわしいのだろう、彼が私を避けるからかも知れない。

 碁の藤沢秀行も友達の一人である。細心にして豪快、素晴らしき男である。余りにもスケールが大きいので社会の枠組みからはみ出してしまうほどである。

 私はこれ等の友達を得たことの幸運を大切にしようと思っている。

 友達も何かと忙しいようで月に二度ほど位しか会うことも出来ず、会っても一緒に酒をくみ交わすことが殆どなくなったのは何とも残念なことである。何とか機会を作りたいものであるがこちらの都合ばかりも云っていられず、会って酒を飲み喋りたいのに積極的にそれを作ろうともしない。つまりいい加減なのである。段々に年を取れば体も衰え、一所懸命将棋を指そうと思っても出来なくなるのであるから今の内になどと思うが、もう一人の私はそんなこと今まで何度思ったんだとせせら笑っている。私の脳は病んでいるのであろうか。

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将棋世界2000年10月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 芹沢は升田、大山の両巨人には、ほとんど勝てなかった。歯が立たなかったと云ってもいい。

 芹沢とて弱冠24歳でA級八段に進み、二上、加藤(一)、有吉らと共に名人位を嘱望された俊秀である。

 それが何故、急に失速し無頼ともいえる生き方に傾いていったのだろう。

 曰く酒、曰く博打、その他云々、様々な憶測があった。

 しかし、これらは意味がない。

 何故、酒、博打に溺れていったかが問題だからだ。

 これはもちろん推論にすぎないが、升田、大山と戦いこの両者が持つ特別な何か、それは芹沢にはどうしても身につけることができない差異、頭脳明晰な芹沢は明敏なるが故に、それを察知しコンプレックスを抱いてしまった、とは考えられないだろうか。

 遣る瀬ない気持ちが酒と博打に救いを求めたのではないだろうか。

(以下略)

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社長になるのを目指して入社した新入社員がトントン拍子に出世をして、若くして役員直前の部長になったものの、どうしても自分は実力的に社長と専務には敵わない。その部長は失望し、酒と博打に救いを求めた。

会社に置き換えるとこのような話になるわけだが、会社なら社長や専務が退任するのを待ってその後を狙うことだってできるし、社長に実力と器量を認めてもらって引き上げてもらうようなアプローチも考えられるし、他の同様な会社へ移って社長になる方法もあり、通常では起こり得ないことだ。

しかし、勝負師の世界だから、このようなことも起こり得る。

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芹沢博文九段が亡くなったのは1987年12月9日。昨日が命日だった。