将棋世界2000年3月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 人生のパートナー 木村一基五段」より。
鈴木 行方君のつもりが、1ヵ月早まったけどよろしく頼みます。
木村 電話がありました。野月の次では濃すぎる、と(笑)。
鈴木 今の26歳組に興味がある。仲がいいんだね。
(中略)
鈴木 奨励会受験はいつでした。
木村 小学5年の時です。アマ四段になってました。59年と60年が多くて80人位受けて17、8人合格でした。試験者と5-1で奨励会員が1-2でした。師匠(佐瀬勇次名誉九段)が大丈夫、というのでお祝いをしました。
鈴木 6勝3敗は立派です。6級なら当然ですね。
木村 そうでしょう。ところが不合格。「落ちました」と師匠に言ったら「あ、そう」の一言でした(笑)。
鈴木 1年浪人するんだね(笑)。小学生名人戦は。本来奨励会のレベルだから良かったの。
木村 これが人生の汚点です(笑)。その年は野月が優勝で僕はベスト8でした。
鈴木 他のレベルも上がってたんだね。ブームの頂点を感じる。今は34、5人でしょう受けるのは。
木村 小学6年が4-2、2-1で同期が屋敷、野月、金沢です。屋敷さんは18歳でタイトルを取り、未だに同期と思っていませんね。
鈴木 昇級はどうでしたか。
木村 ここが野月と違って(笑)、2年で初段、2年半の15歳で二段でした。それまでの貯金でしたね。
鈴木 小学2年からだからね。それから高校へ行くんだね。師匠は反対したでしょう。
木村 「君は丸山と違って行かないだろうな」って言われました。丸山流で笑って「はい」と言って行きました(笑)。
鈴木 丸山流は面白いね。大学も行くんだね。僕の時代は師匠の言葉は絶対だったけど
木村 丸山さんがいなかったらダメでしたね。規則正しい生活で、7時前に起きます。2年の17歳で三段でした。
鈴木 将棋の勉強は出来るの?
木村 夜詰将棋を2、3時間やりました。勉強はしなかったですね。将棋を知らない友人と話すのが楽しかったです。
鈴木 プロ生活のマンネリなのかな。中学卒業で来て来る人とどこか違う。普通の生活は欲張りかもしれない。
木村 序盤の研究なんかもしません。力で勝ってましたから。このまま自然に強くなると。小学2年からずっとそうでしたから。
鈴木 それが年齢制限を気にするようになるんだね。ある意味、戦場が平事に思えてしまうんではないだろうか。
木村 平事も有事も判りません(笑)。物心ついた時からプロですから。
―木村君が大学に行ったのは正解だと思う。非日常の奨励会生活を日常と思う人生だからだ。四段昇段を逃して、泣いた時の話になったら、本当に目に泪が溜まっていた。この対談中に泣いたのは彼が始めてである。私も半分もらい泣きをしそうになった。彼と将棋の関係を垣間見た瞬間でもある。
鈴木 三段リーグは何期指したの。
木村 13期、6年半です。前半は負け越しで、後半は勝ち越してました。
鈴木 特に上がれなかった理由は?
木村 上がる2年前くらいからです。序盤の研究をしたのは。半年が無機質に過ぎていきます。このまま将棋を辞めるのかな、て思ったりしました。
鈴木 君にとって将棋は、人生のパートナーだよね。同じ諦めるでも、他の人とは少し違うと思う。
木村 考えられないです。ここまでやったんだから胸を張って辞められる、と思うまで努力しようと思いました。
鈴木 「限界までの努力」は大切です。どうなっても、いつかその力を発揮して頭角を現すことができる。
木村 週1回、大学に行っている以外は上がれない理由はない、と思いました。それでも、2度最終局に負けて上がれない時はショックでした。
鈴木 野月君は、頑張れ木村と書いていたね。
木村 その時は沼さんと飲んでいて、泣けて泣けて、ただ泣いてました。負けた野月が入ってきて、外に出たんです。そのまま連盟に歩いて、野月が上がったことを知りました。彼は知りませんから、知らせに行って後は覚えていません。
鈴木 絶望の淵だよね。でも、その苦労はきっと活きる。僕は財産も何もないけれど、苦労が財産だと思っている。だから、どうなっても負けないつもりです。
木村 次のリーグが14勝4敗で上がりました。大学も同時に卒業しました。
鈴木 11年半だね。内心こんな筈ではなかったと。
木村 いや、嬉しかったです。どんなにお金を積まれても、三段リーグはもういいやです(笑)。
(以下略)
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鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平」、この前の号に登場したのが野月浩貴四段(当時)だった。そして、この号は行方尚史六段(当時)の予定だったが、行方六段が「野月の次では濃すぎる」と辞退したという流れ。
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佐瀬勇次名誉九段は、弟子が高校へ進学することをあまり推奨しなかった。
しかし、一番弟子の故・米長邦雄永世棋聖がそれを破って大学まで行っている。
とはいえ、米長永世棋聖は佐瀬一門の中では別格であり、遠い昔の話でもあったため、高校へは行きづらい雰囲気が濃厚に残されていたのだと考えられる。
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棋士を目指している上で、高校や大学へ行ったほうが良いのか、あるいは高校には進学せず将棋100%の環境にした方が良いのか、これは正解がなく、人それぞれケースバイケースということになるのだろう。
どちらにしても大切なことは、悔いのないようにすることだと思う。
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木村一基三段(当時)が三段リーグ最終戦に敗れて昇段を逃し、師匠代わりの沼春雄六段(当時)と飲みながら泣いた時のことは、次の記事にも出ている。
→木村一基四段(当時)「あの恥ずかしく悔しい思いは、今も忘れることができない」
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木村一基八段が三段時代の自戦記→木村一基三段(当時)の自戦記「生意気小僧」