戦場の死地から生還した板谷四郎九段

将棋世界1985年9月号、名棋士を訪ねて「東海棋界を守って五十年 板谷四郎九段の巻」より。

―失礼ですが、先生の生い立ちなどは知らないファンが多いと思うんです。まず、その辺からお話し願います。

板谷 私は大正2年6月に三重県伊勢市に生まれたんだが、生まれて百日くらいで名古屋に移った。それから七十二の今までずっとここにいるんだから名古屋の人間といっていいわな。私のうちは戦前、親父が雨傘の骨の製造をやっておってね、職人を五、六人使った家内工業というやつ。名古屋ではそういった工場は一軒しかなかったし、大正の末頃は、まあまあ、それほど苦しいというような暮らしではなかったんだ。

 しかし、第一次大戦の後の世界恐慌とそれに続く不況というのはそれはひどいもんでね、昭和二、三年からの十何年かは経済的にも思想的にも大混乱の最中にあったわけだ。東北なんか悲惨でなあ、食うために娘を売るしかなくて若い娘がおらんくなってしまう。暗殺事件や軍の反乱事件なんかも横行してなあ、それと学生の左翼運動な。私は五中(現愛知県瑞稜高校)に通ってて、そのうちにチャランポランになってしまったけど、そういった学生運動の連中とも多少交際があって東京なんかにも行ったりしとったんだが、その頃の学生運動家たちというのはそりゃあみな真面目で真剣なもんだったね。だけど、そういった運動をしとった仲間は、みんな特高に検挙されたよ。三・十五、四・十六か。その頃の特高というのはひどいことをやるんだ。私も、ひどい目にあわされたことがある。とにかく世の中全体が死にもの狂いだったな、その頃は。

―そういった生活の中で、どうして将棋を指すようになったんですか。

板谷 親父が好きだったんだ。魚釣りと将棋が気違いみたいに好きな親父でね。職人ではあったけど、盆や正月になるといつも七、八人仲間が集って夜通しで将棋を指しとった。私もそういうの見ながら育ったわけだ。親父は大橋宗英の将棋を並べたりしとったくらいだから、素人の二段くらいは指しとったよ。そうこうしとるうちに、家業の方がダメになってきて、私も学校をやめたりして何もやることがなくて、親父がうちの近くにつくった将棋クラブというほどではないが将棋を好きなもんが集まって指す、そういった場所にいつもおるようになった。そこで自然に将棋を覚えたんだな。

 それが二十歳ちょっと前の頃か。それから兵隊に行くまでの間に、名古屋では一番強い連中と同じくらいにはなっとったな。アマ名人までは行かんかったと思うが、県代表よりは、もうしっかりしとったかもしれん。

―そういった生活をしていた先生が将棋界に入ることになったのは。

板谷 その前に戦争の話をせなならんが、私は昭和九年から二十年までの十二年間のうち、四度応召されて、都合八年間兵役を務めとるんだ。それで生きて帰ってこれたんだから丈夫だったんだと思うよ。弱いもんなら死んどるよ、それは。私ら、大正生まれのもの達は本当によく死んどるからね。私は運がよかった。

 私が最初に戦争に行ったのが昭和九年二十歳の時、歩兵第六連隊に入って北満に行った。いわゆる満州事変の時だったけどこの時は二年ほどで除隊になって帰ってきた。名古屋に帰ってきて、そこで結婚して、東新町に”将棋研究所”というのをつくって、まあ将棋クラブをはじめたんだ。

 それで昭和十二年の春だな、豊橋で稲垣九十九が大きな将棋会を開いたんだ。東京から、関根名人や金八段(故・易二郎九段)、木村八段(義雄十四世名人)、小泉七段(故・兼吉八段)といった棋士を招いて。そこに名古屋から私ら、素人の強い連中も呼ばれていって指したんだ。木村八段は名人になる直前で、強くてねえ、五、六人指したんだが、誰も勝てんかった。

(中略)

 私はその時、小泉さんに角落ちで教えてもらった。当時、名古屋にはしっかりした専門家もおらんかったし、私は本をようけ調べとった。土居さんなんかの飛角篇なんかを。それでその将棋は勝負にならんかったんだ。そうしたら小泉さんが「あんたの将棋の力は角落ちじゃわからん、今度は香落ちで指すから、いっぺん東京へ出てらっしゃい」というんだ。

 そりゃあ感激したよ。だけどその頃、すでに中国との関係がおかしくなってきたし、私もいつ兵役に取られるかわからん。「もし戦争が始まらんようだったら是非お願いします」ということで名古屋に帰ってきた。そうしたらすぐ支那事変が始まって、半月も経たんうちにまた召集を受けて支那に渡ることになった。

 昭和十二年の夏に支那に渡り、一年経った時に徐州戦が始まってな、この時に右足背貫通銃創というのを受けた。右足の靴のところを弾丸が通り抜けたんだ。その時は三十人くらいの小部隊が敵陣の真っただ中で一斉射撃を受けて、一瞬のうちに全滅状態になったんだ、生き残ったのは三人だけ。私もケガをして、動けんようになっとったんだが、同じ中隊の後続の仲間が決死隊をつくってくれてなあ、武装もせずに担架をもって助けにきてくれた。担架にのせられると、敵陣が目の真ん前に見えるんだよ(笑)。そりゃあ生きた気はせんかった。敵陣が見えんようになった時は、本当に助かったと思ったよ。

 その後いろんな病院に送られて十四年の暮れに除隊となった。それで十五年になって、ようやく上京して小泉七段のお世話になって木村名人の内弟子にしてもらい、奨励会の二段の試験を受けてね、それに受かって、十六年には四段になることができた。十六年には大東亜戦争が始まるんだが、私は怪我で除隊になっとったから、もう召集はないもんだと思っとった。

 ところが八月になると、今度は浜松の航空部隊から召集が来た。航空部隊と言っても飛行機に乗るわけじゃなくて、戦地に行って飛行場を作る隊なんだ。それで満州から台湾、フィリピン、仏印のカムラン湾、ジャワと転戦してね。まあ、ここまでの間は勝ち戦だったから、それほど危ないこともなかったんだが、十八年にジャワのスラバヤから船で帰還する時はもう非常に戦線が悪くてな、制海権も制空権も全くないような状態で、港を出れば敵の潜水艦がうろうろしとる。それで、私は船に乗っとる間は船倉には入らず、ずっと甲板の上で帰ってきたよ。同じ死ぬのでも船の中でブクブクいくのはどうもならんと思ってなあ(笑)。

 まあ。その時にも沈んだ船はずいぶんあったが、運良く帰ることができた、そうして、名古屋で空襲にあい、疎開先の四日市で空襲にあっているうちに、四度目の召集がきて、二十年の六月に鹿児島の串木野で敵上陸に備えて訓練をしているうちに終戦となったわけだ。串木野では海岸線に穴を掘ってな、その穴に爆弾を仕掛けて人間が入るんだ。そして敵の戦車が頭の上を通ったらヒモを引いて自爆する、そんな訓練ばかりをやっとったよ。それより他に戦う道具もないんだから、しょうがないわ。

 まあ、それで復員したのが二十年の十二月。三十二歳の時か。そんなわけで将棋界に入ったといっても、戦争が終わるまでは、将棋を指しとる時間よりも戦争に行っとる時間の方が長いわけだ。

―戦争中の奨励会入会というのは大変だったでしょうね。しかも先生は二十六歳で二段試験をお受けになった。

板谷 うん、そんなわけで戦争で怪我をして帰った時に病院から小泉先生に連絡したんだ。そうしたら、すぐに出てこいと言われて東京に行った。その頃は名人戦が出来たばかりでな、将棋連盟がいっぺんに大きくなった時だった。

 東京に行くと小泉先生が「木村名人は私の弟弟子だけど名人だし、将棋連盟の会長だから」ということで、木村名人の預かり弟子ということにしてくれたんだ。それから奨励会の試験を受けることになったが、私は歳も行っとることだし三段の試験を受けたかった。ところが、当時の奨励会員が全員連名で反対してきてなあ、二段じゃなくちゃいかんというわけだ。私は、それも仕方ないと思っとったが、そのうちにまた呼び出しが来た。

 今度は、ひどいことを言うんだ。まず試験は五局やって三局以上勝たなくてはいかんという、これはわかる。それから勝って入っても半年間指してみて指し分け以下なら除名するという。勝負だから負けて除名は仕方ないと、ここまでは納得できた。ところが、次に半年間はいくら勝っても昇段はさせんというんだ。これだけは我慢できんかったわ。腹が立ってなあ、その頃の将棋連盟は麹町にあったけど、そこから大井にあった木村名人のうちまで、どこをどう歩いて帰ったのか覚えとらんよ、興奮して。

 東京に出てから奨励会に受かるまで、四カ月くらい私は木村名人のお宅にお世話になっとったんだ。私は名人に、負けて入れんのも、負けて除名も承知だが、勝っても上げんというのだけは納得できん。もうやめて帰ると言ったんだ。そうしたら名人は「君の言う事は分かった。勝っても上げないという条件だけは僕がなんとかする」と言ってくれた。

 その後のことは私は詳しくは知らんが将棋連盟の中がもめたらしいわ。二段くらいのもんを一人入れるかどうかで、大袈裟なことを言うようだが、「名人で会長なら自分の弟子にそういうことをしてもいいのか」ということで奨励会員が全員で判を押してなあ。私の兄弟子の和田庄兵衛(故人・五段)や北楯(現修哉八段)が三段におって、立場がなくて困ったらしいわ。それでも結局、その条件だけははずしてくれた。それで二段で入って、次の召集を受ける前には四段になることができたんだ。それから終戦の時には五段、二十三年には七段に特進させてもらえ、八段になったのは二十五年か。でも私の場合は、そんな様子で入ったから八段になるのが精一杯なんだ。そこでもう息が切れとるんだな。いや、八段になれるとすら思わんかった。だから、比較的他の人より早くやめることになったわな。

(つづく)

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板谷四郎九段(1913年-1995年)は、板谷進九段、石田和雄九段、大村和久八段、北村文男七段、中田章道七段の師匠。

石田和雄九段門下(勝又清和六段、佐々木勇気六段、門倉啓太五段、高見泰地五段、渡辺大夢五段)、北村文男七段門下(山本真也六段)、中田章道七段門下(村田顕弘五段)、板谷進九段門下(小林健二九段、杉本昌隆七段)の大師匠。

小林健二九段門下(伊奈祐介六段、島本亮五段、古森悠太四段、岩根忍女流三段、北村桂香女流初段)、杉本昌隆七段門下(藤井聡太四段、室田伊緒女流二段、中澤沙耶女流初段)のルーツにあたる。

また、板谷四郎九段、板谷進九段の薫陶を受けた指導者が愛知県内に数多くおり、藤井聡太四段が子供時代に通った将棋教室の指導者の方たちも、もちろん実質上は板谷門下。

板谷四郎九段は中京将棋界の祖である。

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戦地での凄絶な戦い。

4回も軍隊に応召されることがあることを初めて知る。

いずれも、もっと長い時間、話を聞いていたくなるようなことばかり。

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明日も興味深い話が続く。

 

 

「戦場の死地から生還した板谷四郎九段」への1件のフィードバック

  1. この方が戦地で亡くなっていたら進先生も生まれてなかったですし、東海棋界は今ほど盛り上がりを見せず、藤井四段も棋士を目指していたかどうかわかりませんね

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