五つ星の自戦記

将棋世界2001年5月号、藤原直哉五段(当時)の自戦記「四段昇段の一局 甘さと厳しさ」より。

 棋士になって13年。35歳。

 人生の折り返し地点を過ぎた。

 四段になってから現在までを振り返ると、順位戦は7連勝から3連敗で昇級できなかったことがある。

 王位戦予選決勝では、4度負けてリーグ入りを逃している。対アマ戦は1勝2敗。

 プロ棋士となって将棋人生を昇華しなければいけないが、五分の成績を残すのが精一杯である。

 対局もなく家でぶらぶらしている僕に、妻が「あなたの仕事はなあーに」とからかわれても、僕は冗談も言えない。

 たまにあった対局も、負ければ酔って帰ってくるしかない。

 チェッ、なんてあの男は俺の時だけ強いんだ。

 などと妻にうだうだと愚痴をこぼすが、アホくさと言って妻は相手にしてくれない。

 昭和54年、14歳6級で奨励会に入会した。

 同期には井上慶太、長沼洋がいる。東西で20人が合格したが、結局3名しか四段になれず不作の年だった。

 1年で2級になった。

 四段は近いと思ったが、それから低迷し、17歳初段だった。

 嬉しくはなかった。

 井上さんはもう四段になっていた。

 20歳で三段になった。

 その前後からか、お金が手元にあると、アルコール、または一瞬の快楽のためにお金を使うようになった。

 楽しいはずの行為も、後で空しさばかりが残り、後悔するばかりだった。

 僕の気持ちは暗く沈んでいった。

 三段になった当時の規定では13勝4敗の成績で四段になれた。

 しかし思うように勝てず、半年ぐらいたった頃、村山聖の四段昇段の一番に当たった。

 先輩の意地にかけて、何としてでも阻止したかった。

 A図で投了。二転三転した将棋も、終わってみれば大差の将棋だった。

  盤面には彼の駒ばかりで、茫然と僕は局面を見ていた。

 将棋に対する、志の高さに負けたと思った。

 三段になって1年が過ぎた頃、三段リーグが復活した。

 順位戦制度改革のため、四段昇段者を、年間4人に絞ったのだ。

 弱い者いじめじゃないか。

 勝手に制度を変えてもいいのか。

 僕は将棋連盟に対して憤りを感じた。

 第1回リーグ戦は9勝7敗だった。昇段した中川大輔や先崎学には、正直な所、かなわないなと思った。

 第2回リーグ戦は5勝10敗。

 僕は頭をかかえた。奨励会で負けた時、帰る足取りは重かった。家の明かりが見えてから、何べん家の周りを徘徊しただろう。両親に会わせる顔がなかった

 四段になれる保証がない世界で、僕はむだ飯を食っているのではないか、退会しても就職はあるのだろうか。絶望の日々だった。

 その頃、奨励会有段者が参加できる若駒戦では好調で、関西代表になった。東の森内俊之四段と優勝をかけて戦った。将来有望と聞こえていた森内さんに、自分の力がどこまで通じるのか、全力で立ち向かった。相矢倉戦から、伸び伸びと指した僕は、優勢を築き必勝へ。

 B図の局面で詰みと思い、相手の投了を待った。

 △5二合駒は▲5三桂以下、△3一玉は▲3二金の一手詰だと。なんだ、森内もたいしたことはない、と思っていると手が出てきて、3一へ玉を寄せた。

 僕は吹き出しそうになった。飛車の横利きがあるではないか。耳が熱くなっていくのが分かった。僕はこれが運命なのかと悟った。外を見た。5階の対局室から僕の体が地面に落下するのを意識した。

 第3回リーグ戦は、前半5連勝と良かったが11勝7敗。悔しい気持ちもあったが、手応えを感じた。

 第4回リーグ戦を前にして、二点注意した。勢いのある指し方をする。もう一点は、持ち時間を残すよう心がけた。終盤、非力な僕は秒読みでミスが目立った。

 早指しで決断よく指したのが良かったのだろう。僕は勝ち星を重ねた。中盤戦の山場、郷田真隆戦では相手がスキーで足を捻挫か骨折。彼本来の力が出なかった。そして残り4局となった。これが最初で最後のチャンスだと思った。

 2月14日、僕は山口県で行われたタイトル戦の記録係を終えて、広島駅に途中下車した。一度、原爆記念館を見学したかった。悲惨、地獄、そんな言葉では語り尽くせないほどの光景を目にし、僕は大きな衝撃を受けた。打ちのめされた気持ちのまま、広島駅へと向かうバスを待っていた。そこへ突然、大粒の雨が降ってきた。屋根のなかったバス停は、僕を容赦なく濡らした。

 2月27日の大一番、杉本昌隆戦を前にして僕は風邪で寝込んでしまった。

 本格正統派四間飛車と言われている杉本君に、過去3回のリーグ戦では歯が立たなかった。

 杉本君は序盤から細心の注意を払い、中盤過ぎから1分将棋になるも崩れることがなかった。杉本対策を考えなければいけなかったが、体調を元に戻すため、ひらすら眠った。

 対局日朝、目覚めは良かった。体は軽かった。駅へ向かう時、自然と小走りになっているのに気がついた。今日2連勝して、昇段できる予感がした。盤の前に座って考えた作戦は左美濃だった。

 1図、普通に指すなら▲9八玉からの米長玉、または▲7七角から▲5九角の転換が考えられる。僕は踏み込んだ。

 ▲2四歩~▲6五歩、良くいえば大胆な指し方だが、まあ無茶苦茶である。数手後、勢いに押されたのか杉本君が誤る。

(中略)

 2図、先手玉は詰めろだが▲8三香から▲8二桂成が決め手。受けなしとなった。大一番を制して、残り3局のうち、1勝で昇段できることになった。次で決めようと思った。

 午後からの2局目は村田登亀雄三段。僕は気楽に指した。66手、△3二金。午後2時57分。早い終局だった。

 感想戦を終えると電話口へと急いだ。

「上がったよ」とお袋さんに言うと、今日昇段するとは思っていなかったらしく、「えっ」と言って沈黙が長く続いた。そして「ありがとう」と言われた。

 夜、井上さんと本間博さんが付き合ってくれた。その時に食べたすき焼きの味は今でも忘れはしない。次はどこへ行きたい、の声に待ってましたとばかり「キャバクラ」と答えていた。

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藤原直哉七段が書いた文章は、その数は少ないけれども、まず間違いなく面白い。

この自戦記も、私の中では五つ星クラス。

以前紹介したエッセイでも個性が絶妙に発揮されている。

藤原直哉五段(当時)「奥さん、一緒にラーメンの汁をすすりませんか」

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どのような時にも、大阪での夜の飲む場には顔を出すことが多い本間博四段(当時)。

本間博五段(当時)の怒涛の二日間

先崎学五段(当時)「さっき郷田に電話したんだけど、今から出てこいって言っても出てこねえんだよ。ヒドイ奴だ!」

この時も、すき焼き→キャバクラ→朝まで居酒屋のようなコースだったことが想像されるが、同門ではないにもかかわらず、本間四段が参加してくれている様子が嬉しい。

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1989年2月のこの当時、キャバクラはまだ珍しかった。

後に日本最大級のキャバクラ激戦地として有名になる東京・中野にもまだ一軒もキャバクラがなかった時期だ。

そういう意味でも、藤原三段(当時)のキャバクラに対する期待は非常に大きかったものと思われる。