藤原直哉五段(当時)「奥さん、一緒にラーメンの汁をすすりませんか」

将棋世界1995年11月号、藤原直哉五段(当時)の「待ったが許されるならば……」より。

 待ったが……と聞いて思いだすのは、奨励会に入会して3年たった17歳、1級のときだった。

 相手はU六段(当時二段)との香落ち戦だった。中盤戦だった。双方が腰掛銀に組んでいる。5五の天王山に歩を打てば相手の銀が死んでいる。

 おかしいな、とは思ったがUさんでも簡単なミスを犯すもんだと、僕は力をこめて歩を打った。

「あっ」

 厳粛な対局室に僕の声が響いた。

「手が離れたね」と彼は静かにいった。

 僕は歩を駒台に置き戻して、

「そうかな」と惚けた。

「離れたよ、悪いね」

 彼の言葉や態度には、有無をいわせない迫力があった。

 今、胸に手をあてて思いだしてみると、手は離れていた。完璧に二歩を打っていた。その時、潔く投了していれば、僕の棋士人生ももう少しましであっただろうと、今残念に思う。

 ただ当時は昇級のペースが鈍くなり、暗くて長いトンネルをさ迷っていた。

 勝ちたい、という気持ちよりも、バカげた負け方をしたくない一心で、手は離れていなかったと、僕は主張し続けた。

 離れた、いや離れていないと、揉めだした時に、当時の奨励会幹事、田中魁秀八段が、何事かと飛んでこられた。

 事情聴取が始まったが、お互いの主張は平行線のままだった。

「目撃者はいないのか」

 との先生の声にも、誰も答える者はいなかった。

 田中魁秀か大岡越前守か、の裁きは、

「しゃあないな、続きをやってくれ」

 結局この勝負、僕が勝った。

 

 四段になって、間もない頃だったと思う。僕は20代半ばを迎えていた。

 谷川先生の祝賀会だったと記憶している。二次会に棋士10人程が、スナックで飲み直しをしている。

 飲める時には、飲まなきゃ損とばかり、意地汚く僕は飲んでいた。

 その時初めて、新婚のU六段夫人を見掛けた。上品で綺麗な奥様、との印象をもった。

 腹がへった、という声が上がって、ラーメンの出前を頼むことになった。

 麺類の好きな僕は、麺だけを勢いよく食べた。

 そして、ラーメンの鉢を持って、僕はU夫人の前の座席へ移動した。けげんそうなU夫人の目の前へ、鉢をさし出した。

「奥さん、一緒にラーメンの汁をすすりませんか」

 待った、これも待ったである。

 

 その後、U夫人と関西将棋会館で、顔を合わす機会があった。

 美男、美女にふさわしい、可愛いボクちゃんを抱いていた。

「藤原君と誕生日が同じなのが、心配なんだが……」とU六段はいった。

「血液型はどうですか?」と尋ねた。嬉しそうに「それは違う」と答えた。僕は奥様と言葉を交わすことなく、会釈して別れた。

 あの「ラーメン汁」以来、将棋はともかく、人間的には成長していると思ったが、訳の分からないことを、口走るのが怖かった。

 

 プリントされた年賀状を、ただ差し出すのは冷たい感じがする。

 余白に一言近況でも書くと、読み手は目や手を止める。

 昨年の暮れ、U六段宛の年賀状には、弛めてくれ、と書こうとした。

 棋士になってから数局指したのだが、一番も勝てなかった。実力差もあるのだが、僕が待ったしたことに、深い思い入れがあるのかもしれない。

 そんな時期に「将棋マガジン」誌に好評連載されている、鹿野圭生女流初段の、「タマの目」に、U夫人のことが書かれていた。

 麻雀に興味をもちだして、女流棋士や他の棋士夫人と、卓を囲んだことが、書かれていた。

 懐かしいな、と思った。子供さんも、そろそろ小学校に入学する年齢になられたのではないだろうか。

 やぼなことを書くのはやめて、次のように書いて、年賀状を差し出した。

 マージャンもいいけど、ラーメンもネ

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将棋世界2000年1月号付録「2000年棋士名鑑 藤原直哉五段」より。

 今年5月に熊本出身の幸代夫人と結婚した。師匠の若松政和七段が媒酌人をつとめた。本紙連載「今月の眼(神吉六段)」に面白いエピソードを紹介しているので抜粋する。

 出会いは3年前、玉名市で行われたイベントに来ていた藤原君を幸代さんが見初め、手紙を出した。それがきっかけで何度か九州でデート。(中略)ある時、博多で会っての帰り道、バッタリ新幹線のホームで谷川夫妻と出会った。「いやあ、危なかったですよ。たまたま彼女と別れた後だったんでバレなかったけど、なんでここにいるのか聞かれまして…私は仕事ですって答えると、谷川先生にバッサリ言われました。「それはない!」と。

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昨日はラーメンの麺を残してスープだけを飲む話。

今日は、全く逆とも言えないが、基本的にはスープを残して麺だけを食べた話。

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ここに登場するU六段が誰かは、次の記事を読んでいただくと分かります。奥様の感想も載っています。

羽生善治竜王(当時)への深夜の電話

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藤原直哉七段の書く文章には独特な面白さがある。自虐型とでも言うのだろうか。

昨年のNHK杯戦での自戦記も傑作だった。

藤原直哉七段、自戦記で振り返る行方尚史八段とのNHK杯(NHKテキストVIEW)

 

 

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