福崎文吾八段(当時)「この二人だと、どっちが勝つかわからんから面白いですね」

近代将棋1993年1月号、故・池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

 富山県・岩井戸温泉の氷見グランドホテルマイアミへ、竜王戦第2局を見に行く。二泊三日のプライベートな旅。といってもタイトル戦を見るのが目的だから、観光はしない。内田百閒先生になったみたいで、いい気分だ。

 大阪から特急、鈍行、タクシーと乗り継いで片道4時間。車窓の景色をながめているうちに、、旅とバイトに明け暮れていた20代のころを思い出した。氷見を訪れるのは初めてだが、昔、日本海の港町をあちこと歩きまわったことがあるので、初めて来た気はしない。

 ホテルの控え室に行くと、戦いはまだ始まっていなかった。初日だから当然か。

 継ぎ盤を見て「どこかで見たことのある局面だな・・・」と思ったが、対局者の顔がなかなか浮かんでこない。首をかしげていると、副立会人の富岡七段が「南-阿部戦の千日手局と同じ将棋ですね。池崎さん、取材したでしょう?」と言う。

 そうだった。8月に関西将棋会館であった棋王戦の阿部-南戦と同じだ。その将棋は前期A級順位戦の南-米長とよく似た戦形で、私は観戦記に「作戦家で知られる阿部が、先手番だったにもかかわらず、千日手局を回避できなかった。しかも南-米長は先手の南が勝っているから、なおさら不可解」と書いた。

 千日手局とはいえ3ヵ月前に自分が取材した将棋を、すぐに思い出せないのだから情けない。「忘れてました」なんて恥ずかしくて言えないから、富岡さんには、もちろんよく覚えてます、という顔をして「そうですね、阿部-南と同じですね」と言う。私も相当なワルだ。

 それにしても、富岡さんは私が阿部-南を取材したことをどうして知っているんだろう。あの日、大阪にはいなかったはずだ。観戦記を読んでくれたんだろうか…。だとしたら、ライターとしてはちょっぴりうれしい。

 竜王戦は千日手にはならなかった。封じ手の直前に羽生さんが手を変えたからだ。それは阿部さんが感想戦で「自信なし」と言っていた形だった。

 夜、週刊将棋の小川さんと将棋を指す。200円の真剣で1勝2敗。うち一局は逆転負けだったので、悔しい思いをする。

 小川さんはホテルの部屋が取れず、近くの民宿に泊まっているそうだ。私は早めに予約していたので、運よく対局室と同じフロアに部屋を確保できた。将棋は負けたけど、宿では勝ったみたい。

某月某日

 竜王戦二日目。対局室に入って封じ手場面を見る。

 プロの対局風景はこれまで数え切れないほど見てきたが、私は対局が始まるまでの数分間が、一番好きだ。部屋の空気はだんだん濃くなり、しばらくすると、それが生き物みたいに皮膚をチクチク刺すようになる。これはふだんの対局のときもそうだが、タイトル戦の場合は空気が何倍にも濃くなるような気がする。大勝負はやはり、現場で見るに限る。

 期待通りの名局だった。

 シリーズが始まったとき、福崎さんは私に「この二人だと、どっちが勝つかわからんから面白いですね」と言った。その通りだと思う。この氷見決戦は谷川さんが勝ったが、羽生さんが勝っていてもおかしくなかった。

 打ち上げのあと、立ち会いの森安九段に「あすの朝、釣りに行きましょう」と誘われる。ホテルの前が海なのだ。時間を聞くと「そやね、5時からでどお?」

 そんな時間に起きる自信はないので、「起きたら行きますが、あまり期待しないで下さい」と答えると、森安九段は一人でも行くという。相変わらず元気な先生だ。

某月某日

 7時に起床。海に出ると、森安九段の姿がない。1キロ先の漁港まで探し歩いたが、そこにもいない。

 ホテルに戻ると朝食会場に森安先生がいた。ちゃんと5時に起きて2時間、釣りをしたそうだ。私と入れ違いになったようだ。「で、収穫はどうでした」と聞くと「ハハハ」と笑う。どうやら、ボウズだったようである。

——–

福崎文吾八段(当時)の「この二人だと、どっちが勝つかわからんから面白いですね」。

どちらが勝つかわからないのは当然のことにも思えるわけだが、この福崎八段の視点が面白い。

あるいは、中原誠十六世名人、谷川浩司九段がタイトルを多く保持していた時代が続いていたので、対抗しうる挑戦者がなかなか現れなかったということも背景にはあったとも考えられる。

——–

池崎和記さんの、「私は対局が始まるまでの数分間が、一番好きだ。部屋の空気はだんだん濃くなり、しばらくすると、それが生き物みたいに皮膚をチクチク刺すようになる。これはふだんの対局のときもそうだが、タイトル戦の場合は空気が何倍にも濃くなるような気がする」が絶妙な描写だ。

両対局者が発している「気」のようなものが本当にあるのだと思う。

——–

ところで、森安秀光九段は、もし魚が釣れていたらどうするつもりだったのだろう。

ホテルを出発する日の早朝のことなので、ホテルの厨房に預けて、打ち上げの時に出してもらうというわけにもいかない。

ちなみに、竜王戦第2局の頃、氷見で獲れる魚は、カマス、ソウダカツオ、フクラギ、シイラなどであるという。

氷見のさかな(氷見漁業協同組合)