花村元司九段が書いた追悼文

将棋世界1982年7月号、花村元司九段の「北村秀治郎八段と私 出会いから別れまで」より。

 人生は長いようで短いと痛感する日が突如やって来ました。五月一日早朝私宅へ電話です。

 父死すとの北村初子さんからの訃報、アッケに取られた私は我が耳を信じたくなかった。

 思えば昭和十三年春、私が浪々の時代名古屋より大阪へ旅した時が交際の始まりでありました。

 当時北村青年は奨励会二段にあり、私はもちろんアマ東海参段二十二歳で北村さんは三十二歳の盛りでした。さっそく一局百円の真剣勝負平手戦。百円の値打は只今の四十万円の計算でしょう。賭け事が非常に好きな北村さんは日本一強かろうがアマチュアに負けっこない自信があったようでした。

 十数番何日かを要した結果は私が勝利を収め以後は親分子分の盃を交わした訳でないが無二の親友としてお互に信じあって参りました。

 北村さんの性格は頑固一徹、融通性に欠けた一短のみで私は好きなタイプです。なぜならば他人に迷惑を掛けることが嫌いで、コーヒー一ぱいでも人を選んで同席、気に喰わんとあんな者は関係なしの只一言の口ぐせを発し素知らぬ風でした。昭和19年に同期の四段、来年は四十年棋士表彰を前にして惜しい逝去は残念無念です。

 昭和二十四年、C級大阪方で北村氏は七勝一敗で優勝、B級へ昇進昇段となった。同じく東京方で私が八連勝でした。

 二年後にはA級八段へ昇る花村、小堀八段に続いて三人目の現松下九段と争い、惜しくも敗れA級をはばまれて終いました。

 実直と一徹によって終生をプロ中の好棋家として技量も群を抜いていた北村氏でした。

 この年、関西より選抜されて木村名人と特選対局を指し、大勝局面となりながら、わずかな緩手で逆転、この惜敗譜こそ北村氏のたった一つの名棋譜と自慢でございました。

* * *

「鶏が鳴くまで」の一代記があります。

藤沢桓夫先生執筆による小説です。

「オレは鈍感だから一手ずつ読み、得心がいかねば指さない。花村ハンが一分の所、オレは一時間考えないと判らない」そんなことを言う謙虚さには敬服したものです。

 夜中の二時、三時までがんばる対局が多い北村さんが藤沢先生の厚意によって小説の主人公となったのも、氏の人徳でございましょう。

 趣味は麻雀。へただが幾夜でもぶっ通しで打つ。これこそ鶏が鳴くまででした。

 関西本部宿直の役目を毎月の半分はして、この余生棋士生活は本人も最も張り合いがあったようです。

 医者はきらい、薬はのまない、ノーシンだけを毎日身につけて、これが健康管理の一つの方法でした。

 競輪、競馬、競艇も好きもので、私が大阪へ行くと、北村さんが園田へ行ってたよ、住吉競艇で会ったよと、噂を聞いたものです。ジミに1レース百円券本命流し買いが好きのようで、「いくら負けても少額ですむ、身分相応でやるんだ、第三者には関係なし」のマイペースでした。

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 医者、病院は御無用、この信条で過ごしておられたが、昨年十二月、宿直も辞退しました。今年に入り、あの筆マメ者が便りの返事もないので、二度三度便りして、やっと返書を頂戴したのが二月半ばのことでした。

 かぜと持病の痔疾、好きな風呂に入れば痔のほうは良いが、かぜに悪い、痛しかゆし、それでも医者病院は大きらいの頑固一徹でしたが、敗局がいよいよ訪れてきました。

 三十有余年、定時棋士総会に定連出席の名物男が楽しみにしていたのは、その都度、私宅に約一週間泊り、「いい休養になった、盆と正月をまとめてやったようだ」とひとりごとの様子でした。

 もう帰らぬ人となり、今年からは来てくれることもない。

 医者へ行こうよと娘さんに言われても、オレは死んでも行かぬと親子喧嘩が多くなり、ついに断念して病院に行く日がやって来ました。

 四月三十日午前十一時、救急車を呼び、みんなにかつぎ込まれ、付近の森本病院で手当てしてもらい、小康を得たとき正気にもどり「大きにお世話になりました。長いことお世話になりました」この言葉が最後になって世を去ったのが五十七年五月一日午前一時四十六分でした。

 わずか十三時間たらずの病院生活、人に迷惑をかけない死去は北村八段らしい一生でありましょう。

 あの世にも多勢の愛棋家がいますよ、また指導将棋をしてあげなさいよ。御冥福を祈ります。南無妙法蓮華経、合掌。

 

――参考―――編集部

「鶏が鳴くまで」は将棋童子(藤沢桓夫著・講談社刊)に収められた短篇ですが、この際、再読してみました。

 昭和5年、23歳のとき浪華倉庫会社での95円の高給を捨てて退社、神田辰之助八段門下として、つけ出し初段でプロ入りした北村青年。しかし生活は苦しく、昭和10年ごろに千日前の大劇地下にあった将棋会所で師範をしたものの、無給で、一局15銭の稽古料だけが収入という生活が続いたとのこと。

 その「鶏が鳴くまで」の中から、珍記録の話を抜萃してみましょう。

≪息の長い将棋を指すことで定評のある北村は、同じ二十六年の対松下戦より前に指した大阪での順位戦で、一局合計1200手という日本最長の珍記録を作ったこともある。

 相手は、これも息の長い力将棋で知られていた故・今高清吉七段で、内訳は、300手で勝負がつかずに持将棋となり、同夜つづいて指し継がれた第2回目が520手かかってこれまた勝負つかずに持将棋。そばで早く自分たちの将棋が終わった加藤博二八段、南口繁一八段、山中和正六段らが呆れ顔で観戦しているうちに、それこそ鶏が鳴く時刻もとっくに過ぎて、夜は白々と明けてしまった。

 そばの加藤八段が仲に入り、将棋はまたまた指し直し。この将棋がまた双方入玉の長期戦となり、結局は北村陣に歩が1枚足りず、規定によって北村の判定負けとなった≫

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故・花村元司九段による追悼文は珍しく、非常に貴重な文章。

本来であれば、敬愛して慕っていた師匠の木村義雄十四世名人が亡くなったときにも花村九段は追悼文を書いているはずだったが、木村十四世名人が「とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と語ったように、花村九段は木村十四世名人が亡くなる1年半前、1985年5月に病気で亡くなっている。享年67歳。

木村義雄十四世名人が語る花村元司九段

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北村秀治郎八段は、角田三男八段とともに北畠時代の旧関西将棋会館の主と呼ばれていた個性溢れる棋士。

二段時代が長く、昭和19年に39歳で四段に昇段するまで、14年間も二段だった。

一局15銭の稽古料。藤沢桓夫さんの小説によると、当時の大阪ではうなぎ丼が25銭から30銭。散髪代が45銭だった。

大劇地下の道場は繁盛していたが、稽古料を払って教えを求める客が一人もいないこともあったという。

しかし、大劇地下の道場では、後に北村二段を経済的にも支援してくれることになる医師二人と巡り合う。

一人の医師は毎月200円を稽古料として支払ってくれた。

花村元司青年と一局100円の真剣勝負ができたのも、そのような背景があったからと考えられる。

北村秀治郎八段が晩年になって関西本部宿直の時は、角田三男八段とともに、対局が終わった棋士をつかまえては徹夜麻雀ということがよくあり、関西本部名物となっていたようだ。

将棋会館今昔

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森信雄七段は四段になっても関西本部塾生をやっていたほどなので、北村秀治郎八段と話す機会も多かったようだ。

森信雄七段のブログには、北村秀治郎八段の思い出とともに、「花村先生もそうだが、森君でなくて森さんと呼んでもらっていた」と書かれている。

奇しくも花村元司九段と北村秀治郎八段だ。

最終校正 12月13日金曜日(森信雄の日々あれこれ日記)

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