S少年「席料は頂いてますから、これは結構です」

将棋世界1988年3月号、読者の投稿欄「声の団地」より。

 S将棋九段に初めて会ったのは、昭和26年か7年であったと思う。

 その頃、渋谷・道玄坂の裏小路のなかに高柳敏夫八段主催の将棋会所があった。まだ焼跡の闇市が栄えていた時代で、木造2階建ての貧弱なバラックだった。S九段は小学校をおえて上京、高柳八段に弟子入りしたばかりの中学1年ではなかったか。丸坊主の可愛らしいS少年だった。

 私が2階から下りてくると、S少年は背広をきちんと着た30代半ばぐらいの男と将棋を指している。男の隣には今や懐かしき落下傘スカートの美女がはべっている。私はS少年の隣に坐って局面を見た。

 この頃、はた目にもズボンの折り目が気になるような仕立ておろし風の背広を着ていられるのは、闇商売の利権につながる”青年実業家”か”筋モノ”だった。安藤組健在の時代である。

 男は初段を自認、当時3級であったS少年に平手で挑んでいるのである。勝敗はあきらかだった。S少年が負ける筈がない。この頃、私は慶応大学の将棋クラブの主将で、高柳八段のお舅さんになる金易二郎八段に御縁があり、月に一度か二度、会所の2階で金八段に教わっていた。三段ということになっていたが、3級であるS少年と普通に指して私の2勝1敗。闇市のなにかを賭けて真剣となれば私の3連敗ではなかったか。プロとアマでは練度がちがう。

 男が負けて、もう一局と挑戦した。2局目も、局面がもつれはしたが男は勝てない。

 「ありがとう」と言って、男は盤側に折り畳んだ千円札を置いて立った。千円は大金である。慶應義塾大学の月謝が確か600円だった。

 S少年は千円札を取ると、男より先に会所の玄関、といっても扉ひとつと土間だったが、にまわって正座すると、「席料は頂いてますから、これは結構です」と辞退した。

 すると、「断らないほうがいいのよ」と女が言った。

 「それでは遠慮なく頂きます」

とS少年は両手をついて丁寧に頭を下げた。きちっとした挨拶だった。中学1年、多分13歳である。なにかに純粋に生きている少年には、敗戦後の荒廃混乱も関係がないのかも知れないと私が思ったほどに、隙のない礼儀正しさだった。

 のちに、S八段がA級から陥落した時、知り合いの観戦記者が、「あのドライなSが、手が慄えてましたよ」と私に言った。Sに好意を持たない言い方だった。悲しかった。

 S八段はテレビに出て、一種のタレントになった。某名人の対局態度について忌憚のない批判をした。九段に昇段したが、勝率でなしに勝ち星の数で昇段する制度に抗議して、相手に失礼なほど短い手数で投了したこともあった筈である。拗ねているという評を聞いた。酒も浴びるように飲んだらしい。

 しかし、彼の同門の弟弟子に中原誠という稀代の大器が出現して、中原に勝てないと思い諦めたことが、爽やかなりしS少年の生きざまを狂わしたのではないか。

 将棋九段芹沢博文が12月9日に51歳で死んだことを、ハワイにいる私は年末年始の来客から偶然に知らされた。

 人の本質とその生きざまとの不可知なかかわり合い方、狂い方については、学者の世界もサラリーマンの世界も、同じ時、同じ場所で、誰と肘突き合わせるかの運によるのではないか。

 私にとっての芹沢博文九段は、可愛く爽やかなりし坊主頭の少年である。

(平田敬 ハワイ)

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心に残る印象的な文章。

平田敬さんは、1931年生まれで慶應義塾大学文学部卒業後、化学工業会社に勤務。1963年に「日々残影」が芥川賞候補、1969年に「ダイビング」が直木賞候補となり、TBSに転じる。1977年には「喝采の谷」が直木賞候補。1980年からはホノルルのラジオ番組でパーソナリティを15年務めており、現在は東京・青山に在住。(Amazonなどの著者紹介より)

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「ありがとう」と言って千円札を置いていった男も粋だし、「席料は頂いてますから、これは結構です」という芹沢博文少年も健気だ。

「断らないほうがいいのよ」という連れの女性もなかなか良い個性を出している。

昔の東映映画に出てくるような雰囲気。

1970年代なら、深作欣二監督作品、背広の男性は梅宮辰夫さん、連れの女性は渚まゆみさん。

1980年代なら、五社英雄監督作品、背広の男性は根津甚八さん、連れの女性はかたせ梨乃さん。

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「千円は大金である。慶應義塾大学の月謝が確か600円だった」

平田敬さんが在学していた慶応大学文学部の現在の授業料は年間1,123,250円なので、月当たり93,604円。

この計算でいくと、当時の1,000円は156,007円。これはさすがに行き過ぎだ。

昭和27年の大卒の国家公務員の初任給が7,650円で現在は185,200円から計算すると、当時の1,000円は24,209円。こちらの方が妥当な感じがする。

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「はた目にもズボンの折り目が気になるような仕立ておろし風の背広を着ていられるのは、闇商売の利権につながる”青年実業家”か”筋モノ”だった。安藤組健在の時代である」

安藤組は、東京・渋谷に本拠地を置く株式会社東興業の俗称で、Wikipediaによると業務内容は、不動産売買、興行、警備、水商売の用心棒、賭博など。

1947年から1964年までが活動期間で(1952年から会社化)、後に俳優となる安藤昇さんが率いる愚連隊だった。背広の着用を推奨、指詰め・薬物厳禁で入れ墨を嫌うなど、都会的な組風だったと伝えられている。

初期の構成員は大学生が多く、最盛期には530人の組員だったという。(作家の安部譲二さんも安藤組出身)

もちろん、ここに出てくる背広姿の男が安藤組だったかどうかはわからないが、そのような時代背景だった。

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