将棋会館今昔

将棋世界1983年1月号、毎日新聞の井口昭夫さんの「観戦今昔」より。

 今年は夏の台風が潮風を運んだため、銀杏が不作で、神宮外苑のいちょう並木で落ちた実を拾う人も少ないと、放送していた。そういえば思い当たる。将棋会館のすぐそばにある鳩森神社の大いちょうは毎年秋になると銀杏の実をたくさん路上に落としていたが、今年は見かけなかった。対局室から亭々とそびえるその大いちょうが見える。色づき、枯れ、散って冬は駆け足でやってくる。加藤一二三名人が「鳥が運動会をやっている」と言ったという、樹上の鳥たちの群れ。鳥にとって銀杏の不作は関係なかったのだろうか。

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 大阪に立派な将棋会館が完成した。「冷暖房完備、豪華、室広、交通至便」で文句のつけようがない。ところが人間は変にぜいたくな動物で、あの「冷暖房皆無、貧弱、室狭、交通稍便」の旧関西本部が懐かしいから妙だ。角田三男七段、故・北村秀治郎八段と、観戦の合間に三人麻雀をやる。「わてら麻雀はしないことになってまんね。そやけど、新聞社の人がやりたいと言わはれば、こりゃ、仕様おまへん」と言いながら、いそいそと支度をしてくれたものだ。

 この旧関西本部は旅館を買い受けて改装したもので、間取りや、狭い中庭などにその風情が残っていた。苛烈な終盤時に近所から詩吟が聞こえてきたりしたものだ。二階の対局室の窓に、隣家の素晴らしいマキの木が迫っていた。ささやかながら借景というべきだったろう。新しい会館には新しい警備員が入った。角田さんの嬉しそうな顔を見ることもなくなった。

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 千駄ヶ谷の古い建物を思い出した。二階建ての和風で、一階に特別対局室、道場、事務室、塾生部屋などがあり、二階は大広間、小部屋という造りであった。対局室から庭が見え、しゃれた構えの印象が残っている。二人づれが旅館と間違えて入ってきたこともあったそうだ。

 ここで第十五期王将戦七番勝負、大山康晴王将対山田道美八段(故人・九段)の対局が行われた。「打倒大山」に燃えた山田に対して大山は必勝の将棋をトン死で失った。歩で合いをすればそれまでだったのを、香を使ったためトン死を招いたと記憶している。このシリーズは余勢を駆った山田が3勝1敗と追い詰めたが、あと三連敗して涙をのんだ。

 塾生制度があった時代である。今は一塾時代、一日交代で奨励会員が雑務をさばいている。

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 一日のはじまりは何事にとっても大切なものである。観戦の朝がそうだ。千駄ヶ谷駅から将棋会館への道で、観戦局の棋士に会うことがある。駅前で悠々と靴を磨く、おしゃれな花村元司九段、二宮金次郎ばりに手帳を見ながら忙しそうに歩く大山康晴王将、人も車も眼中になく一歩々々踏みしめる二上達也九段。こういうときは、第1譜の構想は、たちまち出来上がる。

 今はやめてしまったが、午前10時、対局開始のブザーが鳴ったものだ。

「あれ、鳴り始めが始まりか、鳴り終わりが始まりか、どっちだろうね」と大山氏。

 ブザーが故障で鳴らず、待ち呆けを食ったこともある。あれやこれやでやめてしまったのだろう。

 故障と言えば、王将戦七番勝負の対局の夜、寝静まった頃火災報知機が間違って鳴ったことがある。こちらは昼間だが、テレビの中継車がきて収録中、発電機のわずかな煙で会館正面のドアー・シャッターが閉まり、びっくりしたことがあった。今はそんな失敗はなくなった。あれもこれも新館初期の話である。

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 観戦記者も四六時中そばで見ているわけではないが、投了の瞬間は是が非でも見るようにしている。終盤の迫力をいかに伝えるか大変むずかしいが、張り合いがある。

 実質十番戦った今年の名人戦の最終局二日目夜、中原防衛は間違いないだろうと言われていたが、加藤十段の捨て身の反撃で中原玉にトン死の筋が生じた。控え室で加藤治郎名誉九段が「中原名人が金を引けばトン死筋を見損じているはずだ。ああ、こわいこわい」と言っているのを背に対局室へ戻ると、今やまさに名人は、そのしなやかな指で金を引こうとしている!

 解説を聞きながら観戦しているときは、形勢と両者の表情、動作を見比べてメモをとれる。ところがプロの解説なしで終盤戦を見ていると、形勢がいいと思っていたほうが急に投了したりしてびっくりということになる。いつの間にか逆転していたのだ。こんなときは、観戦記者はプロでないと勤まらないのでは―と思う。

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 夕焼けになると翌日はお天気だという。これも耳学問だが、夕焼けが生じるということは西方500kmの上空に雨雲がないことで、故に晴天が約束される。500kmが400kmだったか定かでないが、それはともかく、特別対局室から眺める夕焼けは美しい。普通なら、これで一日が終わったという解放感に浸るところだろうが、観戦の日はそうはいかない。

 やがて陽が完全に沈み、新宿高層ビル群が星の固まりとなって現れる。棋士のうめきが聞こえ、秒読みの声が響き始めると、室内の蛍光灯がひときわ明るく感じられる。もう、高層ビルをかえりみる余裕はない。

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故・井口昭夫さんのとても印象的な随筆。

対局開始時にブザーが鳴っていたというのも初めて聞く話だ。

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「阿倍野の関西本部がくすんだ五円玉なら、福島の将棋会館は手の切れるような一万円札」と言った人がいたという。

一円玉や十円玉ではなく五円玉というところが絶妙だ。

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故・角田三男七段、故・北村秀治郎八段といえば、阿倍野の将棋会館の主のような存在。

いつも対局が終わった棋士をつかまえては麻雀をやっていたわけで、「わてら麻雀はしないことになってまんね。そやけど、新聞社の人がやりたいと言わはれば、こりゃ、仕様おまへん」という台詞は面白すぎる。

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日本将棋連盟が、東中野から千駄ヶ谷へ移転してきたのが1961年。

現在では東京体育館、津田塾大学、国立能楽堂などの文化施設、多くのファッション・アパレル関係のオフィスなどがある千駄ヶ谷であるが、将棋会館移転当時の1960年代前半は、千駄ヶ谷は都内でも有数の連れ込み旅館街だった。

千駄ヶ谷に連れ込み旅館ができはじめたのは終戦直後のことで、朝鮮戦争で都内に米兵が急増した1950年代に非常に増えたという。

その後、地域の反対運動や東京オリンピックへ向けての整備で、千駄ヶ谷の連れ込み旅館は減っていく。

「二人づれが旅館と間違えて入ってきたこともあったそうだ」と井口さんは書いているが、そういう時代背景があった。

 

 

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