藤井猛九段「△4六飛なんていう手を読めるはずがないでしょ」

将棋世界2002年6月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 4月1日、新年度入りである。順位戦が終われば竜王戦で、この日は、丸山名人対藤井九段戦、深浦七段対鈴木(大)七段戦などの好取組がある。

 1図は、丸山対藤井戦。おなじみの「藤井システム」だが、▲9六歩と受けてある所が見なれぬ形だ。

 いうまでもなく、穴熊に組ませぬ、が藤井システム。端を受けた分、先手の駒組が立ち遅れているのを見とがめて、さっそく仕掛ける。調べてあるのか進行が早く、1図が昼休みの局面だった。

1図以下の指し手
△8五桂▲8六角△4五歩▲8八銀△7三銀▲5七銀△6五銀▲5五歩△9五歩▲同歩△7六銀▲7八金寄△9七歩▲同桂△同桂成▲同香△8五銀▲5九角△5五角(2図)

 一見当たり前の手の連続のようだが、両者長考の連続だった。本戦法の中核をなす部分なのだろう。このあたりの詳しい変化について、局後ほとんど語られなかった。

 しかし、2図となってみると、△9六歩が目にみえており、後手がどう見ても指しやすい。

2図以下の指し手
▲2四歩△9六歩▲同香△2四歩▲同飛△2二歩▲3四飛△9六銀▲3一飛成△4一飛▲3六竜(3図)

 端を破ったのはいいが、後手の問題は2筋の処理である。ここを破られては何にもならない。

 といっても受けは難しくなく、△2二歩と平凡に受ければよい。その後▲3四飛と回られ、歩切れで困ったかに見えるが、成り込まれてもよし、の大局観があれば、どうということはない。

 すなわち、▲3一飛成を許しても△4一飛があり、先手も竜を自陣に引くのでは大した成果ではない。ここの見きわめが藤井九段の勝因の一つになった。

(中略) 

3図以下の指し手
△4六歩▲同歩△9七銀成▲6六歩△9六香▲8九玉△6五歩▲7七銀△6六歩(4図)

 そんなわけで、深浦七段が控え室の来てモニターテレビを見つめている。よき研究材料というわけだろう。もう一人豊川五段は黙々と将棋を並べている。他に奨励会員二、三人と日経のM記者、週刊将棋の記者に私。順位戦が終わると、控え室も急に淋しくなる。

 ▲3六竜と引いたところは銀取り。それを防いで△4六歩だが、これは手筋。

 そうして藤井九段は大長考に入る。

「どうかね」と深浦七段に訊くと「銀が成ると思いますけどね」。

 みんな同じことを考えているらしいが、それにしても藤井九段は長い。寄せにわからぬ点があって苦しんでいたのだが、ここで考えたのが、後のドラマを生んだ。

 40分も考えて△9七銀成。残り時間もすくなくなった。以下△6五歩までは予想された攻め方。

 対して、▲7七銀の受けを、豊川君は「柔らかいな」と感心した。△6六歩の4図のとき、▲同銀左と取って簡単に寄らないのである。その次、△6六同角▲同銀△7六桂でよさそうだが、▲7七銀△6八歩▲同角の頑張りがある。

「そうかな」「何かありそうだな」なんて言っていると「▲6六同銀に△4六飛はどうでっか」怪しげな関西弁がした。声の主はM君である。そんなバカな、と言うわけにもいかず、深浦、豊川両君は聞こえぬふりをしていたが、一分しないうちに、両者は眼を合わせ、なんともいえなぬ、名状しがたい顔になった。

 △4六飛が妙手なのである。▲同銀は△6六角で受けなしだし、▲同竜とは取れない。私も含めて、M君にいい手を見つけられたのが、ちょっとしゃく、というわけ。

 名人も同じだった。△4六飛と出る順にここで気がつき、さっきの大長考のときにこれを読み切られた、と読んだ。そうして―。

4図以下の指し手
▲5八金△6七桂まで、藤井九段の勝ち。

 相手の読みを外すつもりで▲5八金と上がったら、△6七桂で受けなし。あっけなく終わってしまった。

 感想戦で藤井九段にたしかめると、

「△4六飛なんていう手を読めるはずがないでしょ。△6六同角▲同銀△7六桂以外は浮かばなかった。その後がはっきりしなくて考えたんですよ」

 昔だったら、こういう感想を聞けば、「何んだ、読んでなかったの」とかの負け惜しみが出たところだが、今の棋士は上品で大声を発したりはしない。名人も例によって微笑んだだけだった。

 ともあれ「週将」の文体を借りれば、藤井竜王復位に向けて好発進、というところ。

——————

数手前の選択肢の少ない局面での長考が、相手の応手に影響を与えるという事例。

丸山忠久名人(当時)が「なんだ、読んでなかったの」と言う姿は想像ができないし、どう考えてもありえない世界。

「なんだ、読んでなかったの」

森雞二九段なら、どのような場合でも必ず言ってくれそうな言葉だ。

森内俊之九段-佐藤康光九段戦なら、森内九段が笑いながら言いそう。

郷田真隆九段-先崎学九段戦なら、郷田九段が微笑して首を傾けながら言いそうな言葉。

木村一基八段-行方尚史八段戦なら、お互いに言いそうだ。

——————

ところで、4図から▲6六同銀左△4六飛の局面(A図)。

▲同竜は△同角、▲5五銀は△3六飛で、次の△9九飛からの詰みが残るのは理解できる。

▲同銀は△6六角で受けなしと書かれているが、▲7七金あるいは▲7七角と受けられた後の変化が深そうだ。

また、▲3一竜とされた時の変化がわからない。

一見、△4六飛は鮮やかな次の一手に見えるが、私にとっては難しい変化が多く、理解するのにはなかなか手間がかかりそうだ。