将棋世界1982年10月号、原田泰夫八段(当時)の「観戦記の周辺 独自の将棋談を書く」より。
気分の転換、調整
対局前には対局気分を整える、勝ちたい、好局を作りたい、新手を指したい、あと味のいい対局でありたいと思う。指導対局の場合は、平手でも駒落ちでもなんでもいらっしゃい、作戦-中盤-寄せ合いで何か参考手順を局後に解説してあげよう、心得を一つ二つ伝授したい、盤上の技術を味わいながら人間の交流を深めたい。
プロ棋戦は勇退したが、審判指導のお招き、特に講演旅行が前より多い。対局の心構えと同じように、何か仕事をする場合、方針を立てる、準備をする、その気分になりたい。いやな気分で仕事をしてもろくなことはできない。
文を書く場合も、その気分にならなければ話にならない。封筒の宛名を書き写す作業ではない。へたはへたなり、へぼはへぼなりに工夫をし創作してまとめなければならない。人の長所を学ぶことは結構だが、人真似が過ぎては問題外である。
棋は人なり、文も人なり、万法は一心に帰す。観戦記執筆も全く右に同じである。
執筆前に時間があれば各紙の将棋欄を比較しながら眺める。机に向かう気分にならない場合は各誌に眼を通す。映画を観る。入浴する。赤ちょうちん、縄のれんの”研修会”で一時間、二時間、社会学、人間学の勉強をする。職業、年齢、立場が違う善人の集まり、酒道に心得のあるポン友との懇談は、まさに人生の至福である。気分転換は楽しい。
数え歳で六十、棋界入りして満四十五年、将棋に関するお話は尽きることはない。何を省き何を入れるかが問題である。
一局の手数が六十手でも百手でも二百手でも大した問題ではない。三十手の短手数でも書く材料が多く特別困ることはない。
よし、書こうと決意する。一局を八譜か、十譜か、十二譜かをたしかめながら、まず図面、指し手、一日ごとの指し手時間、消費時間を用紙に記入する。毎月一局、サンケイ棋聖戦創設以来観戦記を執筆させていただき満二十年、サンケイ社の観戦記用紙はよくできている。
用意はできた。本局は何を重点に書くかを決定する。ご指導いただいた各界の先生、ご感想を仰ぐポン友の顔と言葉が現れる。
一流人に学ぶ
去る七月二十四日、渋谷東急文化会館7階「とん平の会」に出席した。原田のほかに高柳八段、青野七段もパーティーに参加、各界約百名ほどの方々と歓談した。
加藤治郎先生がご案内のおでん屋「とん平」で、どれほど人生、社会の雑学を学んだことか。パーティーで頂戴した「しぶや酔虎伝」の紹介文を書き写す。
渋谷とん平35年の歩み「戦塵おさまらぬ昭和21年、渋谷川のほとりに灯った”とん平”の提灯を慕って、数多くの映画、演劇人、作家、学者、ジャーナリスト、棋士、医者、宮さままでここに集い、夜を徹して杯を重ねたなつかしい35年の歳月。”とん平”と共に生きた心優しき人々の青春と友情―それを支えたママ、キヨちゃん一家の善意をこの一巻にこめる」加藤先生と原田の随筆もある。
幸運にも26歳で八段、新鋭と言われた青年時代、人生の大学院の如き”とん平”で観戦記のコツを学んだ。その場の講師はフランス文学の辰野隆、詩人の大木惇夫、劇作家の三村伸太郎、八木隆一郎先生たちが、青年原田に特訓のお言葉。
「将棋の観戦記は一局を十日間なら、十日間の独特の読みもので、しかも毎日が面白いこと。一日に一手か、一ヵ所、教師の役割で善悪を示すこと。知能、精神の勝負だから、白熱の臨場感を出すように。将棋を知らない人が喜んで読む欄にすること」
いちいちごもっとも。第40期名人戦七番勝負、中原名人対加藤十段の十局目「名人決定の一番」毎日新聞社の観戦記を担当、”とん平”の特訓を想い出しながら書いた。どうであったか、不評判なら申し訳ない。
約二十年前か、二上ファンの剣豪作家故五味康祐さんの痛烈な言葉がきこえる。
「近頃の観戦記は、どこの社のものも、もう一つ迫力不足です。私が書けば盤上に血の雨を降らせますよ」と豪語した。
朝日新聞社で名人戦をお世話の時代、大岡昇平、五味康祐、木村十四世、原田、名人戦座談会の席であった。右の一言で五味さんが一局を担当した。その道の名人は文がうまいのは当然だが、盤上に血の雨が降ったか、どうかは分からない。
青年時代、富士見高原に療養「白樺の君」の愛称の加藤博二八段は「署名がなくても”原田ぶし”はすぐ分かります。人真似でなくて独特でいいじゃないですか」と激励、友の言はありがたい。
せめて〆切前に
将棋ファンは原田に五枚落、六枚落の層が多い、7六歩、3四歩の変化を詳細に解説しても読まない。分からない、読まないものを新聞に書いても無意味だ。急所、勝因、敗因だけ短く書く執筆作戦は誤りか。
原田流の書き方は、対局者について。その場の雰囲気について。棋界の近況。将棋談あれこれ。形勢判断と次の一手。将棋をご存知ない方も読めるように。何百万人の読者は好みが違うので何を希望されているのかは分からない。
書くからには本を読む。新しい、面白い表現の発見、すべて平素の勉強である。凡才、拙文、各社の編集者にご迷惑をかけないように、せめて〆切り前に原稿をお渡しするよう心がけている。
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2002年までの将棋ペンクラブ交流会では、名誉会長であった原田泰夫九段のあいさつが名物だった。
朝10時に始まる交流会、10時30分頃から原田名誉会長からのあいさつがあった。
新潟のイタリア軒で見た関根金次郎名人の和服姿に憧れ棋士を目指した話、加藤治郎門下内弟子時代の時代、木村義雄名人と一緒に行った満州慰問は出だしとして定番。その後、将棋界の話題、世相、諸々の事柄へと話が展開される。
原田九段の話は面白く、あっという間に30分は経ってしまう。
その間、交流会の参加者は対局の手を止めて話に聴き入っている。皆、原田九段の話を聴くのを楽しみにしていたし、原田九段のことが好きだった。
話が40分くらいのところで統括幹事の湯川博士さんが「原田先生、そろそろお時間が…」と止めるのも定番の流れだった。
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この随筆も、文語体を少しだけ口語体に変えれば、原田九段の話の雰囲気そのもの、原田節だ。
渋谷「とん平」の話の辺りで「原田の話は桂馬のようにあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり」と原田九段なら話しているだろうなと、文章を読みながら思った。
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「将棋の観戦記は一局を十日間なら、十日間の独特の読みもので、しかも毎日が面白いこと。一日に一手か、一ヵ所、教師の役割で善悪を示すこと。知能、精神の勝負だから、白熱の臨場感を出すように。将棋を知らない人が喜んで読む欄にすること」
は、新聞観戦記の理想形であるし、一つの指針でもあると思う。