「将棋の観戦記は、面白くありさえすれば、どんなスタイルでもかまわない、というのが私の考え方である」

将棋世界1982年11月号、川口篤さん(河口俊彦五段…当時)の「おもしろい観戦記を」より。

 将棋の観戦記は、おもしろくありさえすれば、どんなスタイルでもかまわない、というのが私の考え方である。極端にいえば、対局者と棋譜から全然はなれて(実際にそんなことはあり得ないが)もいいとさえ思っている。

 問題は、どんな観戦記がおもしろいのか、ということになるが、こればっかりは読者各人に好みがあるから、いちがいには決めつけられない。

 観戦記を書くのより、読む立場から私の注文を言わせてもらえば、まず指し手の解説の多い文は閉口である。▲△の羅列を見ると、とたんに読む気がしなくなる。そんな時にはその部分を飛ばして読むが、それだと当然ものたりない。退屈な時は辛抱して手を追って見るが、すると終わりは「これで一局の将棋」なんて書いてあって、やっぱりどうでもよい部分だったのか、ということになる。

 数年前に、盤面にはほとんど触れられていない異色の観戦記が書かれ、それを見た時、私や芹沢八段などは、これぞ名観戦記と大喜びしたのだが、驚いたことに新聞社には「これが将棋の観戦記か」という抗議の電話や投書が殺到したそうである。この話を聞いて、そんなものかな、と思ったがその後考えてみると、非難をならしたのはごく一部のマニア的ファンであって、大多数の読者は、おもしろく読んだと思う。そういう読者は、おもしろかったと声に出さぬだけである。逆に、指し手の解説ばかりの観戦記に対しても、やはり、つまらないとの声は出さない。

 実をいうと、そんなことはわかっちゃいるけどできないという事情がある。それは強力な「と金タブー」の存在である。うっかりしたことを書けば、すぐしっぺ返しが飛んでくる。で、君子危うきに近よらずということになってしまうわけだ。しかし、最近はだいぶ変わって来た。棋士も大人になっている。観戦記者諸氏も勇気を持って読者のための観戦記を書いていただきたい。

 そこで私はということになるが、小生度胸はあるものの残念ながら筆力がともなわない。読み物的なものを書いても、労ばかり多くてろくなものが出来ない。で、譜分けなどを工夫して将棋をおもしろく見てもらうことを心がけている。そして、ごますり観戦記にならぬことも。

 今年の春、私は奇跡的な場面を目撃した。棋王戦五番勝負の第1局、対局者は米長棋王対森安八段。この観戦記を担当した時のことである。

 中盤から米長が優勢に戦いを進め、1図となったあたり、米長勝勢と思われた。まずはこの後の進行を見ていただく。

1図からの指し手
△8六飛▲8七歩△9六飛▲9七歩△9五歩(2図)

 ああこの将棋か、と憶い出された方も多いだろう。驚くなかれ、森安は△8六飛と死にに行ったのである。もっとも、△7四飛と引いては野垂れ死にが明らかだから、ヤケ気味であろうとこう指すよりなかったともいえる。

 △9六飛を見た瞬間、米長は「エエッ!」と首をつき出した。こういう筋があることはチラッと浮かんでいたかも知れない。しかし、「まさか」と思っていた。将棋史上こんなムチャな手が成立したことはなかったから…。

 だが、盤上の△9六飛を見つめているうちに、米長の表情はみるみる変わっていった。この飛車は取ることは出来ない。そして取れないようでは負けと分かったからである。

 かくして2図まで、大事な飛車を取ってくれ、いや取らない、どうしても、という奇形が生じた。この局面は森安が優勢と逆転していたが、次の▲8六金を△同角と誤り、結局森安が負けた。

 負けたとはいえ、こうした見せ場を作れるのは、森安の将棋のどこかに仕掛けがあるからであろう。その不思議さに、控え室の中原名人も、不気味さを感じたようだった。

 さて、このおもしろい場面を強調するために、1図を第九譜として2手だけ進め、△9六飛から△9五歩までの3手を第十譜とした。奇妙な手順が一目で分かるように細かく区切ったのである。しかし、そうすると必然的に序盤は手を多く進めざるをえない。そちらはすこぶる分かりにくくなるが、それもやむを得ないと思った。肉は骨に近いほどうまく、将棋は終わりに近づくほどおもしろい。序盤はさっぱりおもしろくない、とも思っている。

 そうした工夫を凝らしたにもかかわらず、観戦記はうまく書けなかった。思いもかけずど真ん中に絶好球が来たために、肩に力が入って凡飛球を打ち上げた格好だった。つまらない将棋をおもしろく見せるのも観戦記だが、おもしろい将棋をつまらなくしてしまうケースも数多くある。観戦記はそれほど重要なのである。

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河口俊彦五段(当時)の「将棋の観戦記は、面白くありさえすれば、どんなスタイルでもかまわない、というのが私の考え方である」

これには私も大賛成だ。

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「驚いたことに新聞社には「これが将棋の観戦記か」という抗議の電話や投書が殺到したそうである。この話を聞いて、そんなものかな、と思ったがその後考えてみると、非難をならしたのはごく一部のマニア的ファンであって、大多数の読者は、おもしろく読んだと思う。そういう読者は、おもしろかったと声に出さぬだけである。逆に、指し手の解説ばかりの観戦記に対しても、やはり、つまらないとの声は出さない」

これは、将棋の観戦記に限らず多くの分野であることだと思う。

一部の人の声の大きさが世論を代表しているわけでは決してない。

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1図は後手の金損の状態。森安秀光八段(当時)の△9六飛からの飛車の押し売りが迫力満点だ。

遠く4二の角が端に利いていて、先手の7九桂が先手玉の逃げ道をふさいでいるから、このような技が成立する。

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「つまらない将棋をおもしろく見せるのも観戦記だが、おもしろい将棋をつまらなくしてしまうケースも数多くある。観戦記はそれほど重要なのである」

ネット中継がある現在、中継を見た人も見なかった人も楽しめる観戦記が求められており、この頃とは観戦記の書き方も変わってきている。

今の時代だからこそ、観戦記の役割は以前にも増して重要になってきていると思う。

 

 

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