近代将棋1977年1月号、芹沢博文八段(当時)の「のむ打つ書く」より。
石田七段と王位戦でぶつかりました。七段と八段ですから普通なら何局か指しているものですが彼とは初対局なんです。
久し振りに”将棋”を指してみようと思ってはいたんですが”感”が鈍っていてまるで将棋になりません。4時にはもう地下の「歩」で能智記者と一杯やっているようではどうしようもありません。
新聞に掲載する予定でしたが余りにひどいんで拝み倒してナシにしてもらいました。
石田君はご機嫌で人の酒をガバガバ飲み、”王将コース”という最高の料理をバクバク喰っています。時々、思い出したように「先生5筋にいった辺りではどうなんでしょうか」判っているくせに聞いているんです。「うるさい!あんまり筋が悪いんで頭が変になったよ」「5筋にいった辺りでは……」じゃれているんです。ご機嫌なんですねえ、今度ぶつかったらひどい目に会わすぞ、なんてことを云いながらも琥珀色はスイスイと喉を通ります。真部五段が現れ、伊藤果四段が現れ席は一段と賑やかになっていきます。
伊藤君は今日ニッポン放送で午前3時から5時まで”伊藤ハテナのオールナイトニッポン”でディスクジョッキーを受け持っているんです。2時間の生放送で、流石の彼も幾らか気後れしたか一緒に出てくれと哀願されれば否と云う私ではありません。
しかし問題は3時までどう酔っ払わずに酒を飲むかです。スタジオに行くのは2時半ですから何たって時間があります。私が「一度家に帰って2時まで寝てそれから出掛けようか」てなことを云うと真部君が「先生、それは筋が悪い、飲むべきですよ、ずっと一緒に飲みましょうよ」悪魔の囁きです。能智、石田両君とは別れて3人で新宿のバーに着いたのは8時頃、バカ話をしながらチビチビ本当にチビチビやっていると年配のお客さんに真部君が話しかけられ適当に挨拶しているんですがしつこいんです。私が助け舟を出して「お客さん、我々3人で勝手にやらして下さい」しばらくは水割りなど飲んでいる風でしたが又々「オイ真部!」すっかり不愉快になった真部君が返事をするわけがありません。尚もその人は「オイ真部、テレビに出たりして少し位有名になったからってのぼせるんじゃねえぞ」完全にからみ酒ですね、もうこれは相手にしても話しても仕様がないと判断して私は2人をうながして店を出ました。
60がらみの年配の方だから逃げる一手です。テレビに出てのぼせる云々は全くひどい云い方で情けのかけらもありません。同年輩なら腕に覚えがあり気性の激しい真部君のことだからひと騒動あったでしょう。
次の店であんな時にはああするより仕様がないだろう、なんたって年上の人だからねなどと、さばきの具合を検討する辺りは将棋指しが如何に研究熱心かと云うことです。
少し飲んで前の店に荷物などを置きっ放しだったのでそおっとドアを開けて覗けば”絡み男”は居りません。
12時頃になると真部君は矢張り何か引っかかるものがあるのでしょうか帰りました。
すると入れ違いに本誌の森編集長が酔っ払って現れ「原稿原稿」と催促するんです。
我々を探し廻っていたようで大分酔っているのに原稿原稿と催促する辺りは編集長の鑑と云うべきでしょうか、編執狂と云うべきでしょうか。とに角うるさく最後の原稿だとか、〆切はとうに過ぎているとか、原稿もらわないと社に帰れないなんて下らないことをグドグド云って可笑な男ですね、「わかった、19日に6枚出す」と云うと今度は、「19日6枚、19日6枚」と呪文のように唱えているところは矢張り編執狂かも知れません。
1時にこの店を出て伊藤君の知っているバーに行き2時まで飲み、雨が少し降っていたので原稿の代わりにカサを編執狂に渡して、連れて行ってくれと云うのを冷たく「ダメ」と2人は一路ニッポン放送へ。
打ち合わせを少しして用意してあった酒を飲みながら3時を待って本番です。
やるもんですねえ、声に張りがあって受け応えCMを出す具合など初めてだとは思えません。初めに彼は「あの今日は一つお願いがあるんですが芹沢さんて話かけていいですか」勿論同門だからそう呼ぶのが正しいんで否やはありません。それでも長い間のクセと云うのは抜けないものらしく少し経てば「先生」なんて話しかけたりしています。
女の話を少しした時、何処かから女の声で「もしもし聞いてますよ」余り物に驚かぬ私もこれにはびっくりしました。「えっ?お前聞いていたのか?」「ハイ」電話で放送に参加です。とりあえず今までどんなことを喋ったかをざっと思い出し、大して女のことは云ってないと気がつけばそれでも少しはあわてていたんでしょうね「愛してるよ」なんて馬鹿なことを下宿のオバサンに口走ってしまいました。これは大いなる失敗です。
伊藤君はそんな私を見てゲラゲラ笑っている。「おゆき」「王将」などをかけて将棋界のことを少し喋ればもう5時です。
スタッフと残りの酒を少し飲み、6時のひかりに乗り込めば京都辺りまで一気の眠りです。
9時半にホテルに着いてビールを1本飲むともう起きていられず早々にベッドインです。
「日曜天国」のビデオを撮り終えたのが6時頃で伊藤君とシナリオライターの阿部哲郎さんが一杯やっている席に行って、阿部さんと話している内は何でもなかったんですが、テレビのスタッフが現れたので「今日の番組は一体何を云わんとしているんだ、俺は面白くないぞ……」乱暴な編集会議が開かれました。
酔ってはいても前から考えていたことなので間違ったことを云った憶えはなく、店を変えて4時まで会議は続くのでした。これが2日間でやったことです。
—————
1970年代半ば、昭和50年代が始まった頃、昭和の良いところが凝縮されたような時代だ。
—————
「歩」は将棋会館の地下にあった和風レストラン。
夜は酒も飲める棋士にとっての社員食堂といった趣もあり、誰でも入ることができた。
—————
石田和雄七段(当時)がやはり面白い。
古今、将棋の筋の良い棋士の代表格といえば芹沢博文九段と石田和雄九段だが、その芹沢八段(当時)が石田七段に「あんまり筋が悪いんで頭が変になったよ」と言ってるのだから可笑しい。
—————
真部一男五段(当時)は超美男子棋士。1976年のフジテレビ系ドラマ『銭形平次』で天野宗歩役で出演している。
—————
ここに出てくる新宿のバーは、芹沢九段が亡くなるまで愛した酒場「あり」ではない。
「あり」は、はじめは新宿ゴールデン街にあったが芹沢九段が初めて「あり」に行ったのは新宿2丁目に移ってから。
田中小実昌さんが1979年に直木賞受章の報せを受けたのがゴールデン街時代の「あり」なので、1976年のこの当時は「あり」は新宿2丁目にはない。
—————
伊藤果四段(当時)のオールナイトニッポン2部がこの時だけのゲストパーソナリティだったのか何回か続けられたのかはわからないが、凄い快挙だと思う。
—————
『日曜天国』は、1976年10月から1977年3月までテレビ朝日系で放送されていた朝日放送制作のワイドショー。放送時間は毎週日曜の10:30 ~11:30。
司会を芹沢博文八段(当時)が務め、伊藤果四段(当時)も出演していた。
—————
内藤國雄九段が『おゆき』で歌手デビューしたのが1976年5月なので、棋士が将棋以外のことで4媒体(新聞・雑誌・ラジオ・テレビ)に登場するようになりはじめたのが1976年といえる。