プロの眼力

将棋世界1990年2月号、塩田丸男さんのエッセイ「芹沢さんを偲ぶ プロの眼力」より。

 芹沢さんと知り合ったのは、テレビの出演を通じてである。

<昭和51年10月13日、新大阪から東京への新幹線車中で・・・芹沢博文(将棋八段)の話>

 と注記されたメモが私のノートに残っている

 この日は、大阪の朝日放送で「日曜天国」というバラエティ番組のVTR収録があった。私は芹沢さんと一緒にこれに出演し、同じ列車で東京に帰った。

 その車中での話が印象的だったので、ノートに書き残したのだ。

 芹沢さんはこの番組の司会者で、私は介添役という形での出演だった。芹沢さんの司会ぶりは型破りの面白さはあったが、率直に言って私の目にはあまり上手とは見えなかった。この人、なんでテレビ番組の司会を引き受けたのだろう、あまり向いているとも思えないのに、そう思った。

 私もわりあいズケズケものを言うほうだからそのことを芹沢さんに言ってみた。

 その答が思いがけないもので、大変面白かった。それでノートに書きとめたのだ。

 芹沢さんは棋士の成長過程の話をした。

「専門の棋士になるためには中学生時代からこの道一筋でやらなくてはならないから、上級学校へは行けない。つまり、何年か経って棋士に不向きと分かってももう転向はきかない。転向しても、他の人に大きく遅れをとることになる。

 一生の運命をかける大きなバクチみたいなものだ。だから入門希望者を見て、これはものにならないと思ったら諦めさせる。

 ものになるかならないかは、そりゃ一目見れば分かるものだ、それがプロというものだ。プロの眼力というのはそういうものだ。

 中原誠だって、奨励会に入門した当初から、あれは将来名人になるやつだ、と先輩のプロ棋士は口をそろえて言っていたものだ。

 そういう次第だから私は何事につけて『プロの眼力』を信用している。たしかなものだと思っている。

 『日曜天国』の司会をやってくれと言われた時、びっくりしましたよ。まったく考えたこともなかった話ですからね。うまくやれるかどうか分からない。だけど、その時、私はこう考えたんだ。テレビ局の人だ。この道で何十年とやってきたテレビ制作のプロだ。そのプロが芹沢ならやれると睨んだわけなのだから、そのプロの眼力を信用しようじゃないか、とね。だから引き受けたんですよ」

 芹沢さんはそう言って、あの独特の、人が好きそうでもあり、一面、皮肉っぽいようでもある笑顔を私に向けた。

 この芹沢さんの言葉がこまかく私のノートには書きとめてある。

 週に1回、芹沢さんと一緒に東京-大阪を往復することが、それから半年間ばかりつづいた。

 酒席を共にする機会もしばしばあった。

 もう時効だろうから打ち明けるが、大阪ミナミの酒場で飲んでいる時、他のテーブルの客たちと立ちまわりの喧嘩になり、私も芹沢さんも一蓮托生でパトカーに乗せられて警察署に連れて行かれたこともあった。

 その他、いろいろありました。

 芹沢さんの推薦でいわゆる”名誉初段”の免状を貰った。その時の芹沢さんのせりふも傑作で、いまだに耳に残っている。

「これからは免状に恥をかかさないように、他流試合はなるべく控えて下さい」

 芹沢さんはそう言ったのだ。面白い人だった。

 早世したのは痛ましいが、ああいう人生も芹沢さんらしくていいじゃないかという気が私にはする。

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『日曜天国』は、1976年10月から1977年3月までテレビ朝日系列局で放送された朝日放送制作のワイドショー。放送時間は毎週日曜の10:30 ~11:30。

芹沢博文九段が司会に向いていたかどうかは別として、芹沢九段の個性やタレント性を見抜いた番組プロデューサは慧眼であったと思う。

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昔のNHK杯将棋トーナメントでは、加藤治郎名誉九段、原田泰夫九段、芹沢九段が印象深い解説者だった。

たまに出てくる升田幸三実力制第四代名人も、中盤で「もう、この将棋は終わっとる」など、歯に衣着せぬ解説で面白かった。

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芹沢九段や多くの棋士に愛された新宿の酒場「あり」は2月で一旦店を閉じたが、4月からまた新しくオープンすることになった。

とても喜ばしいことだ。

詳細については別の記事でお伝えしたい。

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