近代将棋1974年7月号、米長邦雄八段(当時)の「さわやか随筆」より。
いい陽気になったものだ。
5月というのは、一年中で一番良い月だと思う。
息詰まる年度末の順位戦を終え、解放されるのも手伝っているのかもしれない。
最近は調子絶好。伊東へ10日ほど行ってから、2キロほど増えた。
対局がないというのは楽なものだ。
平穏無事な数日を送っていると、天下泰平には、それにふさわしい出来事というものがあるようだ。
ある朝のこと。9時に電話で起こされる。
重大な用件か、偉い人からの電話だな、と思った。
これは芹沢先輩から教わったのだが、我が家では、「天皇陛下だぞ」と、言って寝ることがある。
これは、天皇陛下以外の電話は取り次ぐなという意味である。
しかるに、電話で起こされた。
出てみると、「M警察署ですが―」と来た。一瞬ハッとする。
夢というのは、1、2秒で、ほとんどの筋書きが出来上がるほど、早いものだそうだが、ここ半年の行動を、サァーッと思い浮かべたのには、後で気がついて驚いた。
話を聞いてみると、北海道から出て来た少年を保護しているという。
家元も連絡がつかず、東京に身元引受人もいないとのこと。
ただ、米長先生だけは、良く知っているということですが………という切り出し方である。
先方は知っていても、私の方は全然知らないという例はたくさんある。
迷惑な話とは思ったが、将棋ファンの中にはいろんな人がいるものだ。人の好さも手伝って、行くことにした。
一人で行こうかと思ったが、意外にさばきが難しくなるかもしれないと思った。
こういう局面には、うってつけの男がいるのを思い出した。
さっそく芹沢さんに電話をして、一緒に行ってもらった。
警察署の中で、本人に会ってみると、寝てないせいなのか、ちょっと変わってる感じがした。目がすわっている。
将棋はどのくらい指すのか聞いてみたが、他の話し同様、釈然としない。
本誌は毎月読んでいるとのことだ。
プロ棋士になりたいという訳でもないらしい。どうも真意がつかめないのである。
身柄を引き受ける訳にもゆかず、本人には家へ帰ってもらうよう説得して、署を出た。
後日、連盟で人に聞いたら、いろんな棋士の所へ、大勢来ているようだった。
将棋が盛んになってきた証拠かもしれない。テレビタレントになりたいとか、歌手になりたいと言って家出してくるのと同じだ。
こっちには迷惑だが、一年に何人かは、そうなくてはならぬ、と妙な説を打ち出したりし始める。
警察署を出たものの、朝一番の電話がこれでは、一日仕事にならない。
この日は厄日としてもらったが、芹沢さんは忙しかったようで、ひとつ借りができた。
夜、中野で、南川さんに会う。アマ強豪数人に囲まれ、われわれ二人、酒を飲んでいるうちに愉快になった。
南川アマ名人の功績通り、遅ればせながら六段の免状が出ることになったのを聞く。
凶変じて吉となる。
6月9日が、その祝いの会だそうだ。
当日は中野道場へ行くのを約束して帰宅。
翌日、鷺宮駅まで、ブラブラ散歩していると、赤十字の大型車が駐車している。
看護婦さんが何人かいて、呼びかけをしていた。
どうやら献血運動らしい。
私は一度も協力をしたことがなかったのだが、どういう訳か、足がそっちの方へ行ってしまった。
血圧やら、肝臓障害やら、簡単に調べて、血を取られることになった。
一人だけと思うが、いやに威張っている医師がいた。
一応こちらは協力者である。
将棋の先生がファンに接するような態度がとれないものかと思った。
血液型を調べてもらったら、なんとAB型といわれた。私がB型のところへ○印をつけたので、一枚書き直さなくてはならないのが件の先生の機嫌を損ねたものらしい。
「昨日までB型だったのですがネ」
私はB型と思っていただけに信じられない気がした。
採血の際、もう一度、今度は優しい看護婦さんに調べてもらったが、やはりAB型だった。
200CC抜き取られた。
それでいてフラッとする訳でもなく、タイトル戦の疲れがドッと出た順位戦終了の頃の憔悴しきった体のことを考えると、夢のような気がする。
バッジを一ついただいた。
確かにB型と思っていたのだが、別に大差あるまい。妙な気分で家に帰った。
西村君が結婚した。
5月17日のことである。
前日、一年一度の棋士総会があり、それが翌17日の午前3時51分まで続いたのだから驚く。
結婚式に列席の棋士の大半は、ほとんど寝ていないはずだ。私が司会を務めさせてもらった。
西村君だけは、先の見える男で、総会には出席していない。
加藤治郎会長の祝辞に「今夜は西村君が徹夜の番です」とある。今ごろハワイで、どうしているやら。先ずはおめでとう。
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1990年代までだったと思うが、将棋世界、将棋マガジン、近代将棋の新年号には棋士の住所が掲載されていた。
今から考えると信じられないような時代だったわけだが、そのことと家出人が頼ってくることに相関性があるのかどうかは分からない。
どちらにしても、この時のケースは自宅に直接訪ねてくるパターンではなく、警察署が最初から間に入っていたことが、不幸中の幸いだったと言えるだろう。
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警察白書によると、1974年の家出少年少女の発見保護件数は46,822件。
2015年は16,035件。
少年少女に分類される年齢層の人口の減少はあるものの、減ってることは確かだろう。
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血液型について、米長邦雄永世棋聖は、将棋世界1983年11月号で次のように書いている。
将棋J誌11月号に棋士の血液型の話が載っていた。なかなかおもしろいエピソードも語られていたが、私の血液型に関しては間違っている。
文中ではB型となっていたが、これは20代の話。22歳の時に盲腸の手術をした折は確かにB型であった。しかるに30になって献血運動に協力した処、あなたはAB型ですと言われ、何度確かめてもその通りである。
小生愚考するに、Aクラスに昇級したから血液型も変わったのだろうか。いずれかの時にはB型に戻るのかもしれない。
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自分が思っていた血液型と実は違う血液型だった、という例は、棋士では、米長邦雄永世棋聖のほかに林葉直子さんがいる。
林葉さんは自分の血液型がA型だと思っていたのが、検査をしたらB型だったと知る。
親友の中井広恵女流名人・女流王位(当時)は、将棋世界1992年8月号で林葉さんについて次のように書いている。
それに最近の彼女はメチャ明るくなった。男の人が苦手だった筈が、今では自分から積極的に話しかけている。本人は
―A型だと思ってたら、B型だったので、性格も変わったのョ!―
と言っているが、充実した生活を送っているからだろう。
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米長邦雄永世棋聖も、本当の血液型を知って、何らか性格が変わった部分があるのではないかと思う。
外から見ていると「さわやか」に「泥沼」の要素がどんどん加わっていったように感じられる。
かと言って、AB型は泥沼成分が強いかというと、AB型の棋士は、羽生善治棋聖、勝浦修九段、森下卓九段、木村一基九段、稲葉陽八段、芹沢博文九段、村山聖九段、などで、泥沼とは正反対の雰囲気。
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西村一義七段(当時)の結婚式の模様は次の記事に詳しい。