将棋マガジン1984年2月号、川口篤さん(河口俊彦五段)の「対局日誌」より。
昼休みは、12時10分から1時まで。なぜ12時からでなく、10分すぎからなのかは判らない。連盟流のへ理屈があるのだろう。以前は思い思いに外へ出て食事をしたが、今期から、外出まかりならぬ、というお達しがあって、地下の食堂で出前を取るようになった。
戦っている相手といっしょの食事は気づまりなものである。しかし、黙りこくっているのも変なので、なにか当たりさわりのない話題を選んでおしゃべりする。例えばお嫁さん探しの苦心談などが適当だ。
この日も、例によって青野や前田、桐谷のうわさ話になった。
「青野君がいってたけど『みんな相手がいないのではなく、いるんだけど、先に発表して、なんだあんな女か、といわれるのを恐れて牽制しあっている』が本当なんだって」
そんなことを私がいうと、一同「なに云ってんだろうね」とニコニコするのである。
「ところでね、作家の石川淳は、バアーやクラブで女を口説く時、文士と身分がバレていないと見るや、将棋指し、と名のって撃って出る、のだって。そうすると、どういうわけかモテる、という話を聞きましたよ」
「本当かい」と米長が大声をあげた。
「そんなこととは知らないもんだから、コピーライターだとか、作曲家だとか、整形外科医だとか、いろいろ苦心していたんだ。なんだ正直にいえばよかったのか」
となりで、福本記者が「意外だけど、そういうことはあり得ますね」と感心した。
将棋指しというのは、金にならない商売だから、そんなこともなければつり合いが取れないが、しかし待てよ、将棋指しと名のって、なおモテなければ、絶望ということなのかな。
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「作家の石川淳は、バアーやクラブで女を口説く時、文士と身分がバレていないと見るや、将棋指し、と名のって撃って出る、のだって。そうすると、どういうわけかモテる、という話を聞きましたよ」
この話、はじめは興味深い話だと思って取り上げることにしたのだが、文字を打ち込んでいるうちに、この話の信憑性・有効性に大いに疑問を抱くに至った。
理由は次の通り。
- 作家の石川淳氏は1899年の生まれで1987年に亡くなっている。”将棋指し”と名乗ってモテた時代がいつなのかはわからないが、仮にこの「対局日誌」が書かれた1980年代初頭の頃だとしたら80歳を超える年齢。女性を口説くという次元を超越した域に達しているわけで、仮にモテたとしても、それは将棋指し云々とは遠い理由からではないか。
- 本気で口説けるのが50歳代までだったとしても1950年代以前のこと(石川淳氏は54歳の時に20歳年下の女性と再婚している)。1980年代にそのような昔の事例が参考になるのかどうか。
- 銀座や六本木のクラブの女性の方が上手で、石川淳氏が作家であることを知ったうえで、話を合わしてくれていた可能性も高い。
他にも細かな理由はあるが、決定打は次のこと。
1983年頃の、当時の若手棋士の悲哀。現場からの声である。
自分が棋士であることを明かすと、女性にかえって敬遠されたという時代だった。
このような状況が変わったのは、羽生善治七冠誕生前後の1995年頃から。