将棋世界1986年12月号、大崎善生さんの「点在する妖気 ―福崎将棋の全て―」より。
10月1日、関西会館に福崎七段を訪ねた。十段戦挑戦が決まって数日後のことである。福崎七段の御家庭にお邪魔して睦美夫人、直子ちゃんも入れて写真が撮れれば、と思っていたのだが「これから挑戦という時に家族揃ってというんじゃ、迫力ないでしょう」と福崎にやんわりと辞退された。それもそうである。そのかわり、関西会館になら都合の良い日ならばいつでも出向くとのこと。
”十段への刺客””西の妖剣”などと、福崎のイメージをふくらませていた筆者にとって、家庭訪問の申し出を断られたのは、残念半分。なんとも頼もしく、ちょっぴりいい気分でもあった。
正午、待ち合わせた関西会館に、福崎七段はすみれ色の上下を着て、そして相変わらずの長髪をなびかせて、あらわれた。
(中略)
福崎が将棋を始めたのは、昭和47年、中学1年の夏休みという。昭和47年といえば、”将棋界の若き太陽”中原誠が名人位を奪取した年である。
「将棋世界を見たのがキッカケでした。枚方に田中先生の教室があることを知りまして、夏休みに一人で出かけました。あのときに将棋世界を見ていなければ、私の運命どうなっていたかわかりませんよ」
福崎はそういったあと、すぐに、『近代将棋』を見て、行ってたでしょうけどね、と笑う。ジョークが好きなのだ。
(以下略)
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「あのときに将棋世界を見ていなければ、私の運命どうなっていたかわかりませんよ」と言ったすぐ後に、「近代将棋を見て行ってたでしょうけどね」。
笑わすつもりではなく普通の会話だったのかもしれないが、非常に秀逸なジョークになっている。
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昭和47年の初夏頃の将棋世界を見てみると、田中魁秀九段(この頃は24歳の田中正之五段)の教室は、「棋士の教室」の頁に載っており、福崎文吾少年は、この頁を見て田中五段教室へ通い始めるようになったということになる。
縁というものは素晴らしい。