内藤國雄九段「人間は犬や猫のことを笑いますが、逆に……」

将棋マガジン1984年4月号、内藤國雄九段の「阪田流向飛車」より。

 箪笥の上から物が落ちて、下で寝ている小猫の頭にコチンと当たりました。

 それ以来小猫は二度とその箪笥に寄り付かなくなります。

 犬にも全く同じような所がありますが、偶然かどうか見極めのつかないのが彼等の悲しいところです。

 物事はしかし、同じ事が二度起きると偶然ではないものがあると考えなければなりません。諺に「二度あることは三度ある」とあります。”三”という数字は小さな子供や未開人にとっては沢山という事を意味しますが、この諺は、二度生じたことは、その後幾度も繰り返されるものだと云っているのだと思います。

 人間は犬や猫のことを笑いますが、逆に同じ過ちを幾度も繰り返していて、自分では気がつかないだけというのが真実かも。

 同じ過ちが、一寸服装をかえてくるとそれを易々と許してしまうんですね。これを防ぐにはどうしたらいいのでしょうか。

 それには経験直後に、過ちの正体をはっきり見定めておくこと、つまり”局後の検討”をしっかりしておくことが一番だと思います。

 文字の読めなかった阪田三吉は、人の棋譜を調べるのを苦手としましたが、自分の実戦譜を調べること、特に局後の検討は徹底的にやったといいます。何十年やっても少しも進歩しない人はきっと同じ過ちを幾度も幾度も繰り返しているのに違いありません。

 二度あることは……、それをそのままにしておくとその後無限に繰り返される恐れがあります。それを許さないためにしっかり”歯止め”をしておきたいものです。

(以下略)

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内藤國雄九段は愛猫家。

犬や猫は、たしかに「羹に懲りて膾を吹く」状態になるかもしれないけれども、人間よりもはるかに用心深いということになる。

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それにひきかえ私は、麻雀でリーチがかかっても「自分の手持ちの13枚の牌のうち当たり牌は高々1枚か2枚。確率的にそうそう当たられるものでもないから、何も気にせずに好きな牌を切ろう」とか、六本木や歌舞伎町で同じ店に何度も通っては「ちょっと遊び過ぎだ、そろそろ控えないと」と思いながらも、例えば地下鉄に乗っていて六本木の一つ前の駅になると「とはいえ、今日は飲み足りないな。ポケットにある100円玉5枚を手に握りしめて、表のほうが多かったら、もう一軒行ってみよう」と100円玉5枚を手に握りしめ、表の枚数のほうが多くなるまでそれを繰り返すとか、「羹に懲りても羹を食べ続ける」ようなパターン。

将棋の感想戦もあまり熱心ではない。

あまりにも耳の痛い話だ。