将棋世界2003年8月号、池崎和記さんの「棋士たちの真情 すべてはタイトルのために 阿部隆七段」より。
同じ関西に住んでいることもあって、阿部隆七段と話をする機会はけっこうある。昔からそうだが、彼はおしゃべりが好きで、特にギャハハハハと大笑しながら何時間でも話し続ける。ただしアルコールはあまり飲まないので、場所はたいてい喫茶店である。
2月に竜王戦1組の阿部-谷川戦があり、そのときも感想戦が終わってから阿部に「お茶を飲みにいきましょう」と誘われた。勝負は午後9時前に終わり、谷川王位が勝った。感想戦が2時間あって、疲れた頭で3階の控え室にいったら、一緒におりてきた阿部が「お茶を」と言ったのだ。
「この時間にあいてる喫茶店はありませんよ」と私が言うと、「まあまあ、とりあえず出ましょう」と阿部。控え室には谷川王位もいたが、まさか「谷川さんも一緒に」とは言えない。それで二人だけで会館を出た。
関西将棋会館のある福島駅界隈には朝方までやっている飲み屋が何軒もある。バーがあり、居酒屋があり、屋台がある。だから私は「飲み屋でいいでしょう」と言ったのだが阿部は聞かない。それどころか「梅田にいい喫茶店があるから、そこにいきましょう」と言う。
「えーっ。これから梅田にィ」
「うん、近いから歩いていきましょう」
”近い”といっても歩けば15分はかかるのだ。おまけに2月の深夜だからメチャクチャ寒い。ところが私が返事する間もなく、彼はもう、とことこ先を歩いている。それはないぜ、と思ったが、きょうはまあ仕方がない。彼は大勝負に負けて心がズタズタになっていたのだ。
羽生竜王に挑戦した前期七番勝負は大熱戦で、フルセットまでいった。その直後の谷川王位との対局である。相手はもちろん強敵であるが、敗れた阿部のつらさは私にもよくわかる。相手がだれであれ、前期挑戦者が1回戦で負けたら格好がつかない―。少なくとも阿部はそう思っていたはずで、だからこの日の敗戦は相当にこたえたと思うのだ。
こうして梅田の喫茶店に入ったが、将棋ライターにとって、こういう時間は貴重である。棋士の本音が聞けるからだ。
阿部はもう落ち込んではいなかった。春に結婚を控えていて、披露宴の準備や新居のことなどをうれしそうに話してくれたが、そのうち、どういうわけか羽生善治と谷川浩司の名前が出て、そこから天才論になった。時間つぶしには悪くないテーマだが、ただし天才の定義はあいまいだから、この手の話をして意見が一致することはほとんどない。
果たして、私が「羽生さんは天才タイプだと思うけど、谷川さんはどうかな。僕にはどちらかというと秀才タイプに見える」と言ったら、阿部はすかさず「まったく逆ですよ」と異議を唱えた。
「それって羽生さんのほうが努力家タイプだという意味?」
「そうです」
「ふーん。でも、そうかなァ」
「そうですよ。池崎さんは誤解してます」
こういうのは言葉遊びみたいなところがあるから、どっちでもかまわないけど、ただ「羽生=秀才論」を聞くのは初めてだったので、ちょっと意外な感じはした。
喫茶店には閉店までいた。阿部は終始明るくふるまっていたが、別れ際になると暗くなって、ポツリと「竜王戦で負けるのはきついです」と言った。心の痛みは消えていなかったようである。
(以下略)
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天才は、人の努力では至らないレベルの才能を秘めた人物を指していると言われている。
秀才は、科挙の前段階で及第した者が「秀才」と呼ばれたことから、通常の人間より秀でた才能を持っている人物に対して使われているという。
たとえば、小学校低学年の3年間で小学・中学・高校の数学の課程を終え、数学の大学入試問題は全て満点に近い点数をとった場合は秀才、小学校低学年の時に数学の全く新しい定理を発見した場合が天才、ということになるのだろう。
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とはいえ、大山康晴十五世名人は「天才と言われている間はまだまだ本物ではない」と言っている。
やはり凄い世界だ。