賛成129、反対52、白紙8

将棋世界2005年8月号、野月浩貴七段(当時)の「第24回朝日オープン将棋選手権プロアマ戦」より。

 その話を初めて口にしたのはいつだったのだろう。全然思い出せない。

 確か瀬川さんが銀河戦の対局で連盟に来ていて、その後一緒にお酒を飲みに行った時のような気がする。いや、4階の通称老人シートだった気もする。とにかく覚えていない。「このまま決勝くらいまで行けば、プロになれるよ」とか「8割くらい勝てばね」とか…。いつも応援に来ている川上(猛五段)や田村(康介六段)と冗談交じりに話していたものだ。当然、アマ界でも同じような話題で盛り上がっていた。

 そうこうしているうちに、3月号のトリビアで山岸浩史さんが、プロ入り宣言という形で取り上げた。詳しいことはあまり書かれていなかったが、とにかく衝撃度は凄まじいものだった。ここから話は急激に進んでいくことになる。

 2月23日(木)、将棋世界に書かれてから最初の棋士会で、当然この話題が出た。

 理事会の反応は、直接瀬川さんと話しをしたわけでも嘆願書が出されたわけでもないのでコメントのしようがない、というものだった。誰か瀬川さんと話をした人はいないの?と理事の一人が言われたので、私は手を挙げ、話をしましたと答えた。どういう内容の話をしたか聞かれたが、それは自分と瀬川さんだけの話なので、ここで口にすることはできませんと答えた。

 かわりに次の将棋世界で詳しい内容が書かれているはずなので、そちらをみてくださいと付け加えた。この段階でまだ新しい号は出ていなかったが、当然編集部にはゲラはある。

 大きな問題なのに、理事の誰一人として、次の号のゲラに目を通していないのには正直びっくりした。

 嘆願書が来ないことには話ができないので、瀬川さんに早く出すように伝えてくれとのことだったので、棋士会後すぐに連絡を取った。文章なのでモノマネで伝えることができないのは非常に残念だが、「おう、わかったよ、週明けに着くように出すよ」低く愛嬌のある声で瀬川さんは答えた。

 知らない方に説明しておくが、瀬川さんは昭和59年奨励会入会。つまり私の1年先輩にあたる。そして平成7年度後期の三段リーグで、勝ち越せば次のリーグも指せたのだが、残念ながら8勝10敗の成績で退会となり、プロの世界から去っていった。

 ちなみにこのリーグは中座さんが劇的な昇段をしたリーグだ。私は最終日に2番手から2連敗で昇段を逃し、老人シートに座り放心状態で涙を流し続けたという、今でも思い出すだけで心臓が張り裂けそうになる、悪夢のリーグだった。

 瀬川さんが奨励会に在籍している間、よく家に遊びに行っては何かと面倒を見てもらっていた。それ以上のことについては平成14年6月号の本誌「将棋散歩」で私が瀬川さんを取材した欄をお読みください。

 話を戻そう、2月28日付けで「日本将棋連盟の正会員になりたい」旨の瀬川さんの嘆願書が理事会に届いた。

 理事会はすぐさま、この件を前向きに検討していくことを発表した。同時に5月26日の棋士総会で諮ることになるとの見解も出した。棋士総会で諮るとは棋士全員の投票で決めることを意味している。

 日本将棋連盟の定款では、理事会が認めたものを会員とするという文言がある。

 嘆願書が提出された時点で理事会が認めればいきなり棋士になることも可能だった。

 しかし、これは大きな問題なので棋士の総意で決めたいとの理事会判断は、現実的に考えれば正しいように私は思う。

 理事会発表から総会まで3ヵ月、様々な場所で様々な議論がなされた。これは我々プロ棋士だけではなく、アマ界でも同じような経緯があったようだ。

 プロの意見は百人百様。試験なしで入れる、試験を実施して入れる、三段リーグ編入ならOK、絶対だめ…。私の周りでは、落ち着くところはプロ試験実施での編入だろうとの見方が多かったが、今度は試験方法も様々な意見が出てくる始末だ。

 実はこの問題の最中、4月8日に瀬川さんと行方と私、瀬川さんの友人3人で、箱根に日帰り温泉を楽しんできた。この時ばかりは騒動を忘れて楽しく騒いだ。

 総会前の最後の棋士会が4月27日に実施された。ここには今までにないくらいの棋士が参加した。次の日に行われた大阪の棋士会も多かったと聞いている。

 ここでも様々な議論が繰り広げられた。注目度が高かったのは決定に至る方法についてだ。受け入れる、受け入れないの選択をして、受け入れるが多かった場合、次にどの形で受け入れるか。そこで試験実施が多かったら、試験の投票…。ここでも道筋が見えないまま議論は終わった。

 今年の棋士総会は理事の改選も控えていたので、この問題だけに目を向けているわけにも行かない事情があった。会長が変わるか否かという雰囲気だったので、そちらの方が大きな問題だという声も聞こえていた。

 結局、悩んだ理事会はぎりぎりになってプロ試験実施で受け入れるか、却下の2択で採決を採ることにした。投票で試験実施が多数の場合、試験方法は次の理事会一任というわけだ。他の将棋メディアに結果が書かれているため、もう隠す必要はないので細かい投票結果を記すと賛成129、反対52、白紙8の圧倒的多数で賛成とされた。

 瀬川さん同様、何らかの形で道を作ったほうがいいと私も考えていたので、この結果は正直ほっとしている。

 揉めて夜中まで掛かるのではないかと囁かれていた総会は、午後5時過ぎという例年にない早さで幕を下ろした。

 総会が終わり、携帯の電源を入れるとすぐに、将棋世界のN編集部員から電話が掛かってきた。朝日オープンのプロアマ対抗戦、つまりこの原稿の依頼だった。わかりましたと返事をすると、実はいま瀬川さんが来てるんで寄りませんかと言われたので、編集部に直行。瀬川さんは晴れやかな顔をしている。「ここからは俺次第だからさ」そう、後は本人の問題。勝っても負けても恨みっこなしだ。

 新理事会で瀬川問題担当になられた森下さんと試験についての話をした。

「7月18日に新宿の紀伊国屋ホールを押さえましたから」。6番勝負の第1局の会場が決まった。局数や人選など、意見は分かれるが、理事会一任は総会の決定事項。

 瀬川さん、連盟、お互いにとってベストな形で試験が行われることが望ましい。

 原稿を書いている時点では、初戦の相手しか決まっていない。佐藤天彦三段。奨励会員を使うことに私は反対。ましてや弱い立場の奨励会員に席上対局をさせるなんて。

 しかし理事会も悩んだ末の決定だろう、ごちゃごちゃ掻き乱してもしょうがない。

 今後もベストな形で試験が行われるように協力していく考えは変わらない。

 7月18日、戦いの幕は切って落とされる。運命は瀬川さんの手に。

(以下略)

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野月浩貴七段(当時)の将棋世界2002年6月号(プロ編入試験が行われる3年前)の「将棋散歩」には、瀬川晶司アマのことが詳しく書かれている。

瀬川アマのこと、奨励会時代のこと、当時の近況、合コンのこと、アマ棋界での活躍などが書かれている。

最後のあとがきが印象的だ。

 この取材をする時に大変思い悩んだ。それは先輩であること、親しいこと、奨励会を辞めていったこと、そして何よりも文章で傷つけてしまう可能性があることだった。

 しかし、会って話をしてみると今まで見えなかった、新たな瀬川さんが発見できた。こんなに将棋を情熱を持って愛していたのかと……。皆さんに伝えることができたかは微妙だが、取材してよかったと思っている。

 最後に瀬川さんは、最近の四段は強くないとアマの中で話題になっていると語ってくれた。「野月なんかが言うならいいけど、アマに言われるのは四段になれなかった者として悔しい」と。

 アマプロ間の対局が多くなり、アマが勝つことも増えてきた。しかし、瀬川さんは「仕事を始めて思ったけど、好きな事を商売にしていることは幸せなことで、その反面強くあるべきだ」と語ってくれた。

 確かにその通りで反論はできなかった。もっともっと将棋で食べていける幸せを大事にしなければいけないのだろう。

 瀬川さんは現在彼女がいないそうで、「俺がモテモテになるような文章を書いてくれ!」と頼まれたが、笑って聞き流そう。そんな文が書けるならば、今ごろ芥川賞でも取っているはずだから。

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佐藤天彦三段(当時)は、2004年に通算2度目の次点となりフリークラスの棋士としてプロ入りできる権利を得ていたものの、この権利を放棄している。

この佐藤天彦三段との対局をプロ編入試験第1局として、なおかつ公開対局にしたのだから、あまりにもケレン味があり過ぎると思ったものだった。

これは会長になったばかりの米長邦雄会長流だったのだろう。

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「野月なんかが言うならいいけど、アマに言われるのは四段になれなかった者として悔しい」

いろいろな思いが頭の中を交錯したことだろう。痛いほど気持ちがわかる。