奨励会時代「生意気の見本です」と言われていたことがある棋士

将棋世界2003年6月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 鈴木大介八段はここであきらめ、△6九銀と打ち、以下詰まされて負けた。

(中略)

 やがて鈴木八段が控え室に来て、自戦解説をはじめた。聞き役は、田中(寅)九段、勝又五段と私とその他関係者。解説といっても仕事でないから、うっぷん晴らしのようなものである。「なんでこんないい将棋を負けたのか」「相手の駒を全部取ってやろうと思ったのに」「千日手にして先手番になれば、相手に指す戦法がなかった」などなどの悔みが綿々とつづく。

 局面がその通りなのだから、聞き役はだまってうなずくしかない。しかし、鈴木優勢のある局面のとき「これじゃ(相手も)投げるしかないでしょう」と言ったとき、勝又君が「もし逆の立場だったら、鈴木君は投げる?投げっこないでしょう」と一矢を報いた。

 並べ終えると、鈴木君は「将棋って暗いゲームだなァ」と言った。笑いながらだから真実味がない。

(中略)

 しかし鈴木君は将棋が好きだ。一息入れると「最強の棋士を負かしたのを見て下さい」とか言って、また自戦解説をはじめた。最強が誰かと思ったら、橋本四段だった。

 これが終わったところで、私は話題を変えた。最近は奨励会の三段の噂を聞くことが多く、様子を聞きたかった。先日も控え室で、飯塚六段が少年と早指しをやっているのを見た。少年はさんざんやられていたが、なんとなく見所がありそうに思えた。また、奨励会員が「アマヒコ」がどうしたとかの話をしているのも耳にする。とにかく、有望な少年があらわれたようなのである。

 飯塚君と指していたのは戸辺三段で、「ガッツはケタ違いです」と勝又君が言った。遠くから日浦七段も口をはさんで「将棋を覚えてから、たった6年だそうですよ」

 そして「アマヒコ」は、佐藤天彦三段で、誰だったかが「生意気の見本です」と言った。

 26日の記事で、生意気な少年がいなくなった、と嘆いたが、そうではなかったのだ。他にも、村山慈明、広瀬章人、和田澄人、中村亮介、菊地裕太、天野貴元と、三段リーグには有望株がたくさんいる。年齢と才能は関係ないようだが、やはり若くして四段になった方がよいに決まっている。15、16歳の四段が輩出すれば、かならず活気が出る。久しぶりにいい話を聞いたような気がした。

(以下略)

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将棋世界2003年7月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 最近、三段リーグに15、6歳の少年が多くなったことは前号でもふれた。そのこと、何人かの有望棋士の名を書き落としてしまったのは申し訳なかったが、とりわけ評判なのが、佐藤天彦君で、ネット将棋専門で強くなり、今も変わりなく、師の中田功七段とネットで対局しているとか。せっかく東京に出てきたのだから、盤をはさんで対局した方がよいと思うのだが、ネット対局には、時間を効率よくつかえるなどの利点があるのだろう。ともあれ、どんな将棋を指すのか、早く見たいものだ。

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河口俊彦七段(当時)の文章を読むと、佐藤天彦名人は、名人になるべくして名人になった、ということが分かる。

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しかし、佐藤天彦三段(当時)が「生意気の見本」だったかどうかは、疑問が残るところ。

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本当に生意気かどうかは別として、河口七段が求めている生意気さは、村山慈明三段(当時)、戸辺誠三段(当時)が属していた「酷評三羽烏」のような雰囲気だったのだと思う。

「酷評三羽烏」のあけぼの

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「15、16歳の四段が輩出すれば、かならず活気が出る」

藤井聡太四段が生まれてからほぼ1年後の河口七段の予言。

この予言は見事に当たっているが、さすがの河口七段も14歳の四段の出現までは予測できていなかった。