小池重明氏「すべてを告白します」(後編1)

将棋ジャーナル1985年12月号、小池重明氏の「すべてを告白します(最終回)」より。

鬼加賀との対決

  何時ものように「リスボン」で飲んでいると、大阪の横内正社長(ビル経営)がひょっこり現われた。

 横内さんは外見からしていかにも金満家の社長サンといったタイプだが、将棋はどうしてなかなかのもので、一介の旦那芸ではない。大田学、加賀敬治といった有名な真剣師に、倍層(一対二の賭け率)の手合で向かっていく実力の持ち主。いわゆる県代表クラスといってよい。

 将棋ファンが集まれば、話は決まっている。自慢話か、誰より誰の方が強い、弱いとかいった下馬評のたぐいである。また東京と大阪というのは、昔から東西決戦などといわれるように必要以上に対抗意識があり、何となく話が盛り上がってくるものらしい。

 この晩も酒がすすむにつれ、加賀が日本一や、いや小池も強いで、といったような話に進展して行った。折から同席していたアマ連の関さんが、それは面白いから「将棋ジャーナル」の企画に二人の対決を採り上げよう、と乗り気になって、話はにわかに現実性をおびてきた。かくて「将棋ジャーナル」五十五年一月号掲載の”小池重明全国縦断勝負・大阪編”のストーリーが出来上がって行くのである。

 こうなると、当の本人同士よりも周りの応援団の方が熱が入ってくる。どうせやるなら真剣で、ではナンボ乗せようか、誰と誰が大阪まで付き添いで行くかなど、俄然話題が沸騰し、大変な騒ぎになった。

 結局五番勝負で三番勝った方が五十万円を取り切り。これは公式対局として、その後で番外篇として一局十万円で十番勝負をする、という取り決めが成立した。もちろん、本人同士に金があるわけはない。すべて応援団が用意してくれ、ウマ(対局者)には勝ち分の五割、半分が報酬として支払われることになった。

 対局場は大阪の通天閣囲碁将棋センター。有名な通天閣の塔の地下室をそっくり対局場にしている、日本一の収容人員を誇るマンモス将棋道場である。通天閣を仰ぐたびに、私は何故かもの哀しい、淋しい気分に襲われる。ジャンジャン町の横丁には人間臭い匂いがたちこめ、庶民の哀愁が色濃く漂っているような気がする。東京とは異質の町である。

 大田学、関則可両氏立合のもとに勝負は始まった。

 加賀さんもまた私に劣らず将棋一筋の人生であったように思う。時代に恵まれなかった分私より損をし、それだけ苛酷な生き方を強いられてきたのではないかと想像する。鬼加賀と異名をとるほど強く、私が知っているだけでも同氏の残しているエピソードは数え切れない。 

 例えば、現役プロ八段と平手戦で真剣勝負をして圧倒的に勝ち越したとか、東の大将格の関則可氏と徹夜で死闘を演じて二番勝ったとか、血湧き肉踊る面白い話ばかりである。私にとっては加賀さんは仰ぎ見る大先輩で、何時の日か同氏と対等に相見えるようになろうとは、数年前までは夢にも思わなかった。それだけにこの対決には感激し、思わず力が入った。二人は多勢の観戦者にもかかわらず、目の前の盤面以外には何にも目に入らず、何にも聞えず、ひたすら全神経を集中して、精一杯戦った。経験豊かで、多彩な技術をもつ加賀流の力将棋の前に、私は何度か倒れそうになりながらも必死に持ちこたえ、踏ん張った。結果は公式戦は私の勝ちとなったが、通算成績は二日間合わせて七勝七敗の全くの五分の星で終った。最終局を指し終った時、私は疲労感と満足感にどっと襲われ、しばらくはモノを言うのもやっとの状態だった。恐らくこの時の気分は加賀さんも共有したはずだったし、二人にしかわからない感情だったように思う。五十歳の若さで他界された加賀さんの御冥福を謹んでお祈りいたします。

日暮里将棋センター

 私はアマ名人になる前後数年間は新宿歌舞伎町がホームグランドで、そこで働き、将棋を指し、酒を飲んだ。

 時に得意の絶頂に立ち、時に失意のどん底に落ちたりした。念願のアマ名人になったものの、家庭は崩壊し、仕事は転々として長続きせず、私生活は次第に混乱し、酒に溺れることが多くなった。将来の展望は何にひとつ拓けず、将棋の好敵手にも不自由するようになり、何となく行き当りばったりの生活になっていた。

 年の瀬もつまった十二月某日、たまたま日暮里将棋センターへ電話すると、いま忘年会をやっている最中だという。

「よろしかったら、いらっしゃいませんか」

 と席主の増井美代子女史の声。酒に目のない私のこと、二つ返事ですぐお邪魔した。

 日暮里将棋センターと私には、以前こんないきさつがあった。私がまだ葛飾区でトラックに乗っていた頃、新聞の求人欄にアルバイト(手合係)の募集が出ていた。私の存在など全くの無名の頃である。面接に行ったところ、ごっつい顔が悪印象を与えたのか、ものの見事に落ちてしまった。

 その後「リスボン」などで増井さんを知るようになり、さきに書いた電話の一件となったのである。忘年会にお邪魔したのが縁となって、その後何度か行っているうちに、増井さんの気っぷのよさというか、おおからな人柄に魅せられるようになった。

 そうこうしているうちに、小池実戦教室、日暮里研究会などが発足のはこびとなった。実戦教室で必要というので大盤なども用意してもらった。教室の方には女性も含めて一時十数人の会員が集まり、定収入の無かった私には非常に有難かった。

 研究会の方は月に一度か二度強豪が集まり、勉強と親睦をはかった。内田昭吉(読売日本一)、金子タカシ(同)、白井康彦(学生名人)、櫛田陽一(都名人)、木屋太二(観戦記者)などの他に学生強豪として小島一宏、美馬和夫、藤森保らの諸君が参加した。また女流プロの蛸島彰子さんがセンターの師範をしていた関係から、蛸島さんはじめ、中瀬奈津子(藤森)、神田真由美、兼田睦美(福崎)さんらが出席し、華やかな顔ぶれだった。

 序盤下手の私が、わりにうまく指せるようになったもこの研究会のおかげだと思っている。研究熱心で、しかも和気あいあいとし、内容が高くムードの良いことでは、日本一の研究会ではないかと自負していた。会が終ってからの懇親会も楽しく、蛸島さんの素晴らしいカラオケなど、思い出は尽きない。「近代将棋」誌に将棋と酒という随筆を書かしてもらって、応援して頂いたのもこの頃である。

 しかし、他人目にはどうあれ、経済的にはとても苦しく、毎日をしのいで行くのが精一杯だった。

「年中真剣勝負を指して、ずいぶん儲るでしょう」

 とさるプロ棋士の方から言われて、びっくりしたこともあった。真剣というのは、相手があってこそ指せることで、あえて挑戦してくる者も少ない当時の私は、むしろ無聊をかこっていた。私自身、へんに見栄っ張りのところがあり、自分から相手に誘いかけたりすることも何となくはばかられて、私は自分の存在が何となく中途半端で宙に浮いているように感じはじめていた。かげりが、ぼちぼちと出て来はじめた時期でもあった。

 その頃、久しぶりに懐しい新宿へ出かけた。「リスボン」で旧知の仲間と会い、話がはずむほどに酒が入り、しまいには正体不明の状態となってしまった。それでも一人で町へ出て、ぶらぶら歩いているうちに深夜をパトロール中のお巡りさんをからかってケンカとなり、はずみでぶん殴ってしまった。

 たちまち「御用」になり、歌舞伎町交番へ、すぐに新宿署へ移されて、留置場にぶち込まれてしまった。翌日気がついた時には、前夜のことは忘れてしまって、なかなか思い出せない。この先何日泊められるか不安になった。よく考えてみれば、朝日のアマブロ角落戦で、大山名人との角落対局を一週間後にひかえているのである。熱烈な将棋ファンの都議会議員渋谷守生先生(アマ五段)を思い出し、早速同氏に連絡をとって無事釈放してもらった。ふだんは甘えている渋谷先生の姿が、この時ばかりは大きく厳しいものに見えた。

森難二八段を破る

 昭和五十七年六月、森雞二八段と指し込み三番勝負を行なうことになった。「将棋ジャーナル」の企画である。

 森さんは名人挑戦者になったこともあり、プロ棋界でも有数の高段者である。折りから棋聖戦で、二上棋聖に挑戦することが決まったばかりの時だった。

 手合は角落から出発して、一番手直りで、三番指し込む。すなわち上手が勝ち続ければ飛車落、飛香落まで行くし、下手が勝ち続ければ香落、平手となってしまう。どちらにとっても面子と意地のかかった厳しい勝負である。

 私は当時二期連続アマ名人となり、経済的、私生活のうえでは死活スレスレの線をたどりながらも、将棋の方はむしろ充実し、わずかながら上昇気連にあった。それだけに将棋に勝ち、生活の方も何とか立て直したいと、かなり真剣に思い詰めていた。

 第一局目の角落戦は、序盤下手が災いして、中盤で早くも必敗形になってしまった。しかし、簡単に負けるわけにはいかない。必死にくすぶっているうちに、上手が楽観視し過ぎ、最終辛くも逆転に成功した。私としては全く不本意な将棋で、終始生きた心地がしなかったのだが、皮肉なものである。これですっかり流れが変ってしまった。

 第二局目は、香落戦。上手の右端に香車が居ないのに乗じて、私は十八番の居飛車穴熊。一局目の勝利に気を良くして、よく手が伸びて楽勝した。森さんは先ほどの逆転劇がよほどショックだったのか、やや指し手が荒くなったように感じた。なまじ旺盛な闘志の持ち主だけに、歯車がいったん狂うと、平素の実力が出し切れないのかも知れない。

 第三局目は、いよいよ待望の平手戦。私は指し馴れた四間飛車に振り、銀冠に組み上げた。森さんは居飛穴。

 ここまでくれば負けて元々と、私は終始冷静に指し手を進めたが、森さんにかかったプレッシャーは予想外に大きかったらしい。結局この心理的ハンデが微妙に影響して、私は望外の勝利を得ることが出来た。

 森さんは後日、大山会長からお小言を頂戴したらしいが、そのため私がトップバッターで、以後も続く予定だったこの企画は一回切りでつぶれてしまった。勝負の常とはいえ、森さんには悪いことをしてしまったと思う。折角アマ連の企画に好意的に協力して下さったのが、全くの裏目に出てしまったのだから。

 しかし、森さんの態度は立派だった。潔く敗戦を認めた男らしい態度は、さすがに高段者の風格があった。私如きがただ一度平手で勝ったとて、誰が森八段の実力を疑おうか。ただ将棋というゲームには、往々にしてそうした番狂わせを演ずる意外性の一面があるということだろう。また、それだからこそ将棋は面白いのかも知れぬ。

 私の悪運もまだ多少残っていたのか、同年は読売日本一にもなり、タイトルがまた一つふえた。

(つづく)

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小池重明氏が最も華やかな活躍をしていた頃、私生活はその反対に厳しい状況であったことがわかる。

私生活が厳しければ厳しいほど、小池氏は将棋に勝っていたのか、将棋に勝てば勝つほど私生活が厳しくなっていったのか、どちらなのかはわからない。

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「熱烈な将棋ファンの都議会議員渋谷守生先生(アマ五段)を思い出し、早速同氏に連絡をとって無事釈放してもらった」

渋谷守生さんは後の石原慎太郎知事時代に都議会議長を務めている。

渋谷守生さんからいろいろとお話を伺ったことがあるが、やはりこの時の釈放のことも話されていた。

渋谷さんの記憶では、釈放されたのは大山康晴十五世名人との対局の前日だったという。

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増井美代子さんは女性アマ強豪で、日暮里将棋センターを閉めた後は、クラブを経営。

将棋ジャーナルでの対談にも登場している。

伝説の月刊誌『将棋ジャーナル』に載った、今では考えられないような座談会