2018年を振り返る(多く読まれた記事)

2018年、トップページ以外で多く読まれた記事TOP50。

  1. 「皆の頭に浮かぶ人物、口には出さねど”あの男”。そう、他に誰がいるというのか」……神と呼ばれた伝説の匿名ネット棋士
  2. 佐藤康光棋聖「プライベートで会うことはありません。電話もありません」、羽生善治四冠「全くありません」
  3. 村山聖八段(当時)の急逝が将棋連盟に伝えられた日
  4. 先崎学六段(当時)「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」
  5. 超スピード昇段
  6. 藤井猛九段「こっちは優秀かどうかで戦法を選んでない。指してて楽しいかどうかなんだから」
  7. 「谷川先生が怒っているんですよ」
  8. 一手で勝負が決まってしまうとは思えないような中盤の局面
  9. 羽生善治竜王と林葉直子さんの再会
  10. 点のある・ない論争
  11. 林葉直子女流二冠への米長邦雄王将からの手紙
  12. あまりにも柔軟な奨励会員
  13. 糸谷哲郎3級(当時)の伝説、稲葉陽5級(当時)の伝説
  14. 「封じ手事件」の真相
  15. 先崎学八段(当時)「バカ野郎、棋士なんかやめちまえ!」
  16. 板谷進九段の夢と藤井聡太四段
  17. 芹沢博文九段「あれはたいした将棋じゃあない。あんな将棋指していたんじゃ、ろくなものにならないね」
  18. 藤井猛九段「おかしいなー。この変化に自信があるから、羽生さんはこっちを持って指したはずなんだけどなー」
  19. 大山康晴十五世名人「加藤一二三さんよりひとつ多くなったわけですね」
  20. 故・米長邦雄永世棋聖は言っていない「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」
  21. 「1億と3手読むという呼び名は伊達ではなかった」と言われた佐藤康光棋聖(当時)の読み
  22. 「史上初のハプニング」と言われた4人による名人戦挑戦者決定プレーオフ(1979年)
  23. 「ボク達を、もうA級じゃないと思っているんだよ」
  24. 「ダメです。元棋聖が記録係なんて、絶対ダメです」
  25. 「将棋指しにしておくには惜しい人材」と言われた棋士
  26. 第30回将棋ペンクラブ大賞
  27. 反則負け列伝
  28. 羽生善治七冠(当時)出題の詰将棋
  29. 破滅型の天才棋士
  30. 奨励会で3番目に強いと言われていた先崎学3級(当時)
  31. 藤井猛九段「三浦君、大盤解説まかせたよ」
  32. 「私がこんないい手指したのに、ずるい。私がお客さん楽しませたのに、賞金もっていっちゃってずるい」
  33. 「将棋のプロ棋士でぴったりの名前の人がいるやろ」
  34. 谷川浩司名人(当時)「その日、連盟に着くまでの私は、正にルンルン気分であった」
  35. 米長邦雄三冠(当時)「中原先生もこの将棋を負けてはいけませんねえ」
  36. 羽生善治七冠(当時)「15歳ぐらいの私なら経験の差で、何とかあしらえると思うんですけど(笑)」
  37. 藤井猛九段「考えてもそうは指さないよ。桂で取ると思ったね」
  38. 「あんた、相手が羽生だったら投げたでしょう」
  39. 森内俊之竜王・名人(当時)「結婚を前にした人には勝てませんでした(笑)」
  40. 中井広恵女流二冠(当時)「10年後なんて、どうなってるかわからないじゃないですか。えっ、自分が生きてると思ってるんですか?10年後に」
  41. 「将棋やってる若い子って、皆ああなのかしら」
  42. 「その王手飛車が敗着でしょ」
  43. 「深浦2級は”なかなか強い”と有段者にもマークされている」
  44. 最短手数の将棋
  45. 先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」
  46. 信じられないような逆転勝ち
  47. 関東奨励会期待の星・羽生善治三段(当時)
  48. 佐藤康光棋聖(当時)「最近、どうも変だ。調子が良い悪いということではなく、頭大丈夫?という事件が起きたからである」
  49. 高名な数学者が語った「将棋でポカが出る理由」
  50. 森信雄六段(当時)と山崎隆之少年

 

それでは皆様、よいお年を。

「きょうは負けたので、もう一晩世話になるよ」

近代将棋1984年3月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。

風の三晩

 わが千葉県には、政治倫理の腐敗、トルコ風呂のほかに、ギャンブルという名物もある。

 ざっと近辺を見渡すと、中山競馬場に船橋競馬場、競輪は千葉と松戸にちょっと川を越えて取手、さらには江戸川競艇もある。

 勝負師である将棋指しにはギャンブルファンが多い。いつだったか、米長さんが何かに「競馬は、酒呑みの酒と同じ。金をつかって楽しめばよいのだ」というようなことを書いていたが、この程度の健康なファンが多いのである。

 しかし、芹沢さんとなるとちょっとばっかり病的。五、六年ほど前の話だ。千葉で競輪の日本選手権が開かれた。大きなレースなら琵琶湖でも、小倉でも……という芹沢さんが、これを見逃がすはずはない。だが、芹沢さんの家から競輪場までは二時間近くかかる。「おう、そうだ、能智クンは千葉に住んでんだな。こんど千葉でダービーがある。一晩泊めてくれないかなあ」ときた。

 狭い家だが、そんなことはお安いこ用。第一、ひと晩寝ずにワイワイ酒が呑めるのもいい。すぐに「いいとも」である。

 しかし女房は「あんな有名人を、このボロ家に泊めるの?なにをめし上がるのかしら」と数日前から大騒ぎ。「あの人は呑んでるだけで、喰わないよ」といっても、三日間ずっと同じことをくり返しているのだ。

 さて前日、芹沢さんは弟子の佐藤義則六段を連れて堂々と現れた。サトチャンの実家も津田沼にある。三人、バカをいいながらガンガン呑んで、サトチャンは「じゃあまたあした」といって深夜帰っていった。

 翌朝、芹沢さんは勇躍千葉へ。わたしは仕事があるので会社へ、は無粋だ。

 ところが、仕事を終えて帰ってみると、「よう、お帰り!」と芹沢さんの出迎え。「きょうは負けたので、もう一晩世話になるよ」というのだ。またしたたか呑んだ。

 次の日、わたしは会社を休んでしまうことになる。といっても酒のせいではない。

 朝、二人いっしょに家を出たのがいけなかった。「オレも行ってみるか!」となって、西へ向くはずの足が東へ。おく手のわたしにとって、これが初体験で少々ビビッていたのだが、競輪場に着いてみると、知った連中がいるわいるわ。

 勝浦修八段、佐藤庄平八段、山口英夫六段にサトチャン、碁打ち五、六人はいた。「初体験か」といって手とり足とり教えてくれたのだが、さっぱり当たらなかった。

 そしてまた帰りにヤケ酒。こんどはわたしが「もうひと晩泊っていきなよ」と誘って、芹沢さんは三日目の朝を迎えることになる。

 心配していた女房もけっこう楽しそう。「パパと同じでなんにも作らなくていいのね」と三日目には、台所へも立たずに酔談を聞いてゲラゲラ笑いこけている。

 ようやく嵐は去った。だが、いま考えてもおかしい。酒で会社を休んだことのないわたしが、初体験のバクチでいとも簡単に休んでしまった。「でも、これも交際、仕事のうちさ」と自分に弁解するから、将棋記者とは気ままなものだ。

いるわいるわ

 書く枚数がいっぱいになってきた。しかしこれを書いておかないと、千葉が将棋天国である証にはならない。急いでフィニッシュだ。

 関根さんが「千葉県は、近代将棋の発祥の地」といってくれたが、関宿町には関根十三世名人のほかに大長考の渡辺東一名誉九段も生まれているし、大正期の三派の一つ「東京将棋研究会」の領袖・故大崎熊雄九段 晩年は市川に住んでいた。

 あと黄色い電車を一気に走らせると、市川に「市川市市川の市川一郎さんで満貫」の故市川一郎八段はじめ、藤代三郎五段、寺崎紀子二段が住み、八幡には松田茂役九段、船橋には毎日の井口昭夫氏と関口勝男五段、西船には「将棋世界」の元・前編集長の太期喬也氏、清水孝晏氏、沼春雄五段が”将棋部落”を作っており、大内延介八段も以前ここに住んでいた。

 津田沼周辺は松下八段、佐藤義六段、金井厚氏のほか、故山田道美九段、朝日の東公平氏がいたし、最近は「二十回目ぐらいの転居」で引っ越し魔の西村一義七段が腰を落ち着けた。

 黄色い電車の終点・千葉には、御大の佐瀬さんと幹事長格の長谷部さん。その佐瀬さんの家には中井広恵二段が内デンをしており、長谷部さんの師の故大和久彪八段も千葉市の出。五年前に急逝した高田丈資七段も津田沼と千葉の間の検見川に住んでいた。

 さらに内房線に乗りかえ南に進めば、木更津には浅沼一五段いて、観戦記者の大長老・関本三猿子氏が「ことし米寿なんですよ」と元気いっぱい。逆に外房線を下ると関屋喜代作六段の故郷・茂原があり、その先の一の宮は故京須行男八段、天津は故金高清吉八段の生まれたところ。また西の銚子方向には吉田六彦七段が住み、八十三歳になる観戦記者の日色恵氏もこの近くの出身だ。

 一方、利根川沿いを走る常盤線には平野広吉六段がいまも住み、ちょっと入った白井駅前には北村昌男八段が立派な家を建て「千葉は住みいいよ」といいながら、ときどき深夜に一万円のタクシー代をはり込んでいる。

 そしてことしの年賀状、やはり千葉市に住んでいる囲碁のチョウチクン棋聖名人からは「千葉県バンザイ」。独身貴族の桐谷広人五段はいつも何か書いてくる。ことしは「わたしも結婚して、津田沼あたりに住もうかな!」―あてにしないで待っていますよ!

* * * * *

「競馬は、酒飲みの酒と同じ。金を使って楽しめばよいのだ」

酒飲みの人でも、何の変哲もない居酒屋で1人1万円請求されたら、それまでの楽しさが一気に吹っ飛んでしまう。

ギャンブルについても、負けても楽しめる金額(これ以上負けると楽しめなくなる金額)がそれぞれの人や状況によって変わってくるのだろう。

* * * * *

千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開園したのが、この前年の4月15日。

能智さんのこのエッセイでは東京ディズニーランドについて触れられていないが、まだエピソードの方が追いついていないというか、この頃の将棋界は東京ディズニーランドの雰囲気とは対極の世界にあったと言っても良い。

そのようなイメージが変わるのが、1995年からの羽生善治六冠・七冠フィーバーの頃から。

 

内藤國雄王位(当時)「千葉は牛肉がうまいんやろ!」

近代将棋1984年3月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。

猛牛を喰う男

「能智さん、たまには千葉に王位を持って来てよ」という佐瀬勇次八段の声がきっかけだった。「んじゃ、やるべェ」となったのが一昨年夏の王位戦、中原誠王位(当時)-内藤国雄九段の七番勝負第五局だった。それ以後、昨年春には中原棋聖(当時)-森安秀光八段の棋聖戦、そしてすぐ内藤国雄王位(当時)-高橋道雄現王位の王位戦と、千葉県内での大勝負が次々と続く。

 なにせ、千葉市在住の佐瀬さんは、その当時は理事。そして王位戦担当のわたしは習志野市、うちの局長が船橋市に住み、前千葉支局というからことはスイスイと運ぶに決まっている。だれが「ずるいよ」といったって、これが「郷土愛」というものサ、と愛国心も薄い男がいうのだから少々汚ない。

 その木更津市の対局のときは、内房では初めてということもあって、前夜祭に百人を越えるファンが集まった。県在住の佐瀬さんと、以前船橋市に住んでいた大内延介八段が立会人。長谷部さんらの援助もあって、県内あちこちからファンがかけつけてくれた。

 こういう席は、やはりにぎやかなのがいい。だが、この前夜祭はちょっとばっかり度はずれていた。

 ”カラオケ狂”の佐瀬さんが進行役をつとめていたのが大敗着だったといってもいいだろう。宴たけなわとなると、だれもかれもが唄い出し、まるで素人歌合戦。しまいには佐瀬さん十八番の「清水次郎長伝」までとび出して「内藤先生も一つお願いできませんか?」とまでエスカレートしてしまった。

―このあたりが、タモリにまでバカにされる千葉県民性。翌日、大事な対局が行っている両対局者のことなど、まったく考えに入れていないのだ。

 木更津対局が決まったとき、「いややな、ヘンピなところでは」といっていた内藤さんが、海を見渡せる対局場の「八宝苑」に入って「なかなかええとこや」と気嫌を直したばっかりなのに、またぶちこわしである。冷や冷やしていると、内藤さん、少々ヤケ気味に「陽気でええやないか!」。神戸っ子の気のやさしさを千葉県民に煎じて飲ましてやりたいと思ったものだ。

 だが、ぐっとこらえていた内藤さんは、翌日の対局中にパッとうっぷんを晴らす。

「昼食はどんなものがいいですかねえ?」とわたしが二人に聞いたときにそれが出た。まったくの澄まし顔でこういうのである。

「千葉は牛肉がうまいんやろ!」

「うん?」とわたしは詰まった。中原さんの「えっ」といって内藤さんの顔を見ている。

 神戸牛というのは聞いたことがある。しかし千葉牛は―、とまで考えてわたしはハッとヒザを打った。

 棋界通のファンの方ならもうおわかりだろう。あの佐瀬さんが”千葉の猛牛”といわれていたことを―。内藤さんは、昨夜のシッペ返しを、こんなユーモアで表現したのである。わたしが例によって「ワッハッハ」とやったので、中原さんも気が付いた。こんなときに中原さんもいたずらっ子になる。「うっふっふ。そうか、それじゃあ昼からステーキとしましょうか」。こうして千葉の猛牛」は二人のポンポンにおさめられてしまったのである。

酔っぱらい聖人

 その対局は、ステーキの効用があってか内藤の勝ち、続く六局目も内藤が勝って王位にカムバック、中原を無冠に追い落としてしまった。

 そして、昨年夏の王位戦となる。こんどは内藤王位に高橋道雄五段が挑んでいた。大方の予想に反し、内藤が一勝三敗とカド番に追い詰められての第五局が千葉市の「共済会館」で行われることになった。

 これも佐瀬さんの”浜幸なみ”の政治力から生まれた対局だった。なんたって千葉は、浜田幸一先生以下、川上紀一先生、泰道三八先生……、といろんな意味で”高名”な先生方がそろっている。

 その千葉県特有の風土を強く反映してか、佐瀬先生、まず年賀状で「ことしも千葉で王位戦をやっか」と「事前運動。しかも幸いなことに、自分のデシの高橋君が強豪を次々と倒し、あれよあれよという間に挑戦者に浮かび上がってきた。

 そうなると、担当記者も局長も千葉県在住のわが新聞三社連合も喜んで、動き出す。

 そして生まれたのが、この千葉決戦だ。

 スマート好みの内藤さん、「なんや、『ちば共済会館』やて。名前がどうも気に入らん」ともらしていたと聞くが、「新聞社の都合もあって決めたんならしゃあないわ」と気持ちよくOKしてくれた。

 ところが、である。対局の前日、内藤さんとわたしは東京駅の総武線ホームで待ち合わせていたのに、内藤さんは待てども待てども現れない。しかし、こうなることはある程度予想もしていた。

 実はこの日の朝、内藤さんはNHK杯戦の録画撮りで弟デンの森安秀光棋聖と将棋を指していた。悪いことに、その将棋の解説者が芹沢博文八段だ。この三酒豪がそろって呑まないわけがない。芹沢さんがいつも「オレは昼呑んだときは、夜寝てる。だから普通の人と同じ、ただ時間がちょっとずれてるだけなんだ」と平然としているように、この人たちには夜も昼もないのである。

 真っ昼間、東京駅のホームで一人寂しく駅弁を喰いながら待つのは少々わびしい気分。一時間ほど待って「しゃあない」と対局場に先行したが、高橋君や立会の五十嵐豊一八段、長谷部さん、世話役の佐瀬さんらが到着したのに内藤さんはさっぱり現れない。

 だが、わたしだって並みの酒呑みじゃあない。呑めば時間ぎりぎりになるくらいは百も承知だ。自室の冷蔵庫のカンビールを抜いてゆうゆうだ。あわてず騒がず、「あきれた担当記者だ」と思いつつ。

 前夜祭開始の三十分ほど前、内藤さんは”大変なお供”を連れてNHKさし回しの車でゆう然と現れた。「やあやあ、すまんかったねえ。おわびに”聖人”を一人連れてきたわ」。さすがに”神戸組組長”の貫録である。そのお供の聖人はなんと”出来上がった棋聖”森安さんなのだ。しかも、この聖人、出来上がってしまうと目茶苦茶に騒々しいから仕末におえない。

「芹沢先生と六本木で呑んどったんや。でも、わしゃ酔うとらんで」にはじまってワイワイガヤガヤ。大独演会である。

「わしゃあ聖(ひじり)じゃ。王位や王座(内藤さん)なんかよりずっとえらいんや。ビールはどこや、この王位戦の担当記者はだれや。早よう持ってこい!」

 だらしない顔で大威張りするから、とってもかわゆい。内藤さんもただカラカラ笑うだけ。わたしも従順なシモベになるしかない。すると暴君、ますますつけあがる。

「便所はどこや。これドアがあかんぞ!」

とPUSHと書かれたドアをギーギー引っぱっている。やがてさわやかな水音「ああ、気持ちええ。けど、千葉は田舎や、便所の戸がなかなかあかんのやから」そういう聖人の”紳士の窓”は下げたが上げず、開きっぱなしなのは神戸風か。前夜祭には特別立会人として大山康晴十五世名人も出席したが、なんといっても花を添えたのは、この”特別出演者”だ。わたしが隣に座ってガラにもない抑え役だが、あのいつものナゾの微笑はナゾの大笑いに変わっていくばかり。

 酔っぱらいはこうなると、人を困らせるのが面白くなるらしい。「わしゃ帰るで」と立ち上がったのを四度も玄関まで迎えに行った。

 そのうち、こんどは里心。「ユーコたんに電話してええか?」ときた。ユーコたんとは奥さんの裕子さんのこと。神戸まで10の数字を回すのだが、なぜかうまくつながらない。「おい君、笑うてないで回さんか」でようやくユーコたんが出た。

「ああユーコか、わしじゃ。わしゃいま、千葉におるんや。これから有名な栄町のトルコへ行くんや」。このあたりまでは威勢がよかったが、どこかでフニャフニャになってきた。「うん、そうか、すまんな、あした早よう帰るから」と単語がポツポツ出てきたのは、権威がなくなってきた証明だ。

 それからまた、内藤さんらと外へ出て呑みまくったが、棋聖にはもう最初の迫力はない。「そうや、わし、あした加藤一二三先生と対局やった」と一人タクシーに乗り込んだのは十一時近くだった。

 ハゲ山の一夜のごとき夜はあけた。大事な一局の前、神聖な朝の空気は静かだ。早起きの大山名人は、もう起きて新聞の株式欄に目を通している。そしてポツリ、「きのうの前夜祭は大変だったね。さすがの能智 さんもさっぱり酔えなかったみたいですね」

―見られていたんですよ、”聖さま”!

 こんどは翌々日、その聖人さまから電話。久しぶりに正気の声である。

「内藤先生の将棋はどうなってます?わたしはもちろん勝ちましたよ。加藤先生、二日酔いを見抜いてじっくり指してくれたんで、その間にぼくは酔いをさましてしまいました」といってから”ザンゲ”がはじまる。「おとといのこと、ぜんぜん覚えてないんです。気が付いたら新宿でした。何か悪いことしませんでしたか?」―なにおかいわんやだが、わたしとてよくあること。「ええ跡とりがでけたな、能智さん!」と内藤さんも”かわいい弟”の成長がうれしそうだった。

(つづく)

* * * * *

棋聖が飛び入りで登場する豪華な前夜祭。

当時の六本木で昼から飲むことができる酒場はそうそうなかったから、レストランでワインをたくさん、あるいは中国料理店で紹興酒などをたくさん飲んできたということなのだろう。

* * * * *

1983年に千葉大女医殺人事件という事件があった。

犯人は夫(研修医)で、千葉・栄町にあるフィリピンパブのフィリピン人ダンサーに夢中になり、妻が邪魔になっての犯行だった。

この事件はワイドショーなどでも大きく取り上げられた。

私の叔母が犯人の写真を見て、私が犯人ではないかと思い、心配をして母に電話をしてきたということもあった。

それほど似ていないと思うのだが、見る人によってはそう見えるのだろう。

それはともかく、1989年2月、千葉市の繁華街で顧客の接待をした時のこと。

一次会が終わって「もう一軒行こうよ。いい店を知ってるんだ」という顧客の誘いで行った店はフィリピンパブだった。

私「そういえば、千葉大女医殺人事件の犯人はフィリピン人女性に夢中になっていたんですよね」

顧客「ああ、あの事件ね。その子が勤めていたのはこの店だったらしいよ」

社会人になってから千葉県で酒を飲むのはこの時が初めてだったが、よりによって不思議な縁と言うか、なるほど、という言葉しか出なかった。

店のスタッフも誰も、私の顔を見て驚いてはいなかったから、自分はやっぱり犯人とは顔は似ていないんだ、と思ったものだった。

平成になったばかりの頃の千葉の思い出。

千葉県出身の棋士

近代将棋1984年3月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。

近代将棋の発祥地

「将棋会館」のある千駄ヶ谷駅から、西に向かう黄色い電車に乗る。東京にお住まいの方ならだれでもおわかりだろうが、この電車が総武線。千葉、幕張、津田沼、西船橋行きがあるが、すべて千葉県が終点となっている。つまり、「会館」から真っすぐ一本、約三十分で江戸川を越えて千葉県に入るのである。

 だから………ということもある。この千葉には将棋指しがワンサと住んでいる。もし、タモリが将棋が強かったら、ああまで千葉を小バカにすることもなかったろうと思う。と、わたしが鼻をヒクヒクさせるのも、実は わたし自身、その千葉の習志野市津田沼に住んでいるからだ。

 いま、わたしは、その津田沼のマンションでこの原稿を書いている。本誌の編集部はなかなかきびしく、年にわずかな正月休みもゆっくりと休ませてはくれないのである。「えーい、こんちくしょう」と書きはじめたのだが、酒も呑みたいし、テレビの駅伝も見たい。おまけに子供どもが妙なニューミュージックをガンガンかけているので、手は原稿、口は酒、目はテレビ、耳は音楽と一人四役の同時進行となってしまっている。「ちょっと手を休め、ベランダの外をながめると、すぐ前に小学校がある。歴史の古い津田沼小学校だが、実は第一回「記者会賞」を受けた松下力八段と若手観戦記者の金井厚君は、この学校の卒業生。

 こんどは、ノソノソと裏の窓をのぞいて気分を休めるが、こちらには京成電車が走っている。「この京成沿線にも誰かいたな!」と思って、ハッとする。そうだ、きょう、わが家から三分ほどの京成津田沼駅の駅ビルに「津田沼将棋センター」がオープンし、師範の関根茂八段が、この京成でやってくることになっている。そんなことを思い出したら、もう手はなめらかに滑らない。下駄をつっかけて「将棋センター」へ。

 数日前、やはり千葉市に住む長谷部久雄八段に「こんど、津田沼に初めて「将棋道場ができ、関根さんが師範となりますから、よろしく」といわれていたこともあるからだ。長谷部さんは元々この津田沼に住み、いわば、ここが「縄張り」なのだが、関根さんが「道場を出す」といえば、気持ちよくそれを援助する。将棋指し同士の「仁義」といえばそれまでだが、なにか暖たかさが漂っているのがうれしい。

 いたいた。関根さんは例のエビス顔でアマチュアの将棋を見て回っている。

「やあやあ、待ってたんだよ。ここは能智さんの縄張りと聞いていたんでね。さあ、ちょうど手もあいたから寿司屋で開店祝いといきますか」

 ちょっぴりヤクザっぽいところが、やっぱり棋士の世界だ。誘われるままにノレンをくぐり、またチビリチビリとはじめてしまった、というわけ。

 ふだんから関根さんはほとんど呑まない。しかし、呑む席は好きだし、ちょっと入ると陽気によくしゃべってくれる。

「そう、いま千葉のことを書いてんの?そんなら忘れちゃいけない人がいるよ。ほらわたしと同姓の大先輩。あの人は明治元年関宿町の生まれなんだよ」

 いきなり、こう切り出してきた。ご存知、関根金次郎十三世名人のことである。むろん、ここにいる関根さんとはなんの因籍関係もない。が、学究肌の関根さんはこういったことにくわしい。

「関根先生は、十一歳のころ伊藤宗印十七人の門に入り、明治から大正にかけ一時崩壊しかけた将棋界を再建し、大正十年に小野五平十二世名人の跡を継いで十三世名人に就位したんだ。昭和十年、自ら引退声明を出し、三百年の伝統を破る実力名人制を創り出した。先生は昭和二十一年に亡くなっているので、わたしはお目にかかったことがないけど、この千葉県は”近代将棋の父”を生み出しているんだ」

 ここまでを感想戦のようにサッと復元し、「これは書かなくちゃあ」とアドバイスしてくれる。いまでこそ「神戸組」全盛期で、さらには「高槻組」などというのも生まれているようだが、この関根さんのバックアップで、わたしも勇気百倍だ。

 「神戸組」のスポークスマンに神戸新聞の中平邦彦記者(近著「名人 谷川浩司」の著者)、「高槻組」の応援団長に共同通信の田辺忠幸記者(「将棋なんでも入門」の著者)が付くなら、このわたしも微力ながら「千葉組」のために黙ってはいられない。

「でもねえ」と関根さん、ちょっと真顔になって考える。「ほんといって、あんまり強いのいないんじゃない?」と蛮勇にポトリと水をさす。それでようやく正気に返った。「そうだ、関根さんは京成電車の沿線に住んではいるが、江戸川を越えた向こう側。東京・下町の高砂だ」と。

 そのわたしの裏切られたような顔に気付いたか、関根さんは付け足した。「でも、とにかく数はいっぱいいるよな」。近代将棋の父から、ガタンと落としてしまうから。この人の話はきつい。

 でもまあいい。この千葉県に永く住んでいるといろいろなことがある。

(つづく)

* * * * *

タモリといえば、千葉県よりも埼玉県に対する攻撃(?)の方が有名だが、千葉県も同様の位置づけとなっていたようだ。

* * * * *

現在の千葉県出身の棋士は次の通り。当時と様相は変わってきている。

渡辺東一名誉九段
松下力九段
佐瀬勇次名誉九段
平野広吉七段
長谷部久雄九段
関屋喜代作八段
加瀬純一七段
達正光七段
丸山忠久九段
真田圭一八段
岡崎洋七段
木村一基九段
佐藤和俊六段
石井健太郎五段
三枚堂達也六段
近藤誠也五段

* * * * *

ちなみに、出身都道府県別の棋士の人数は次の通り。(棋士番号のついている棋士。物故棋士、引退棋士を含む)

東京 88
大阪 30
神奈川 21
兵庫 21
千葉 16
北海道 13
埼玉 11
愛知 9
広島 9
静岡 9
岡山 7
福岡 7
京都 6
宮城 5
三重 5
新潟 5
長野 5
群馬 4
青森 4
奈良 4
富山 4
和歌山 4
茨城 3
山形 3
長崎 3
鳥取 3
宮崎 2
高知 2
秋田 2
徳島 2
栃木 2
福島 2
愛媛 1
岐阜 1
熊本 1
香川 1
山梨 1
石川 1

 

将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(2018年12月29日)

amazonでの将棋関連書籍ベストセラーTOP30。