内藤國雄王位(当時)「千葉は牛肉がうまいんやろ!」

近代将棋1984年3月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。

猛牛を喰う男

「能智さん、たまには千葉に王位を持って来てよ」という佐瀬勇次八段の声がきっかけだった。「んじゃ、やるべェ」となったのが一昨年夏の王位戦、中原誠王位(当時)-内藤国雄九段の七番勝負第五局だった。それ以後、昨年春には中原棋聖(当時)-森安秀光八段の棋聖戦、そしてすぐ内藤国雄王位(当時)-高橋道雄現王位の王位戦と、千葉県内での大勝負が次々と続く。

 なにせ、千葉市在住の佐瀬さんは、その当時は理事。そして王位戦担当のわたしは習志野市、うちの局長が船橋市に住み、前千葉支局というからことはスイスイと運ぶに決まっている。だれが「ずるいよ」といったって、これが「郷土愛」というものサ、と愛国心も薄い男がいうのだから少々汚ない。

 その木更津市の対局のときは、内房では初めてということもあって、前夜祭に百人を越えるファンが集まった。県在住の佐瀬さんと、以前船橋市に住んでいた大内延介八段が立会人。長谷部さんらの援助もあって、県内あちこちからファンがかけつけてくれた。

 こういう席は、やはりにぎやかなのがいい。だが、この前夜祭はちょっとばっかり度はずれていた。

 ”カラオケ狂”の佐瀬さんが進行役をつとめていたのが大敗着だったといってもいいだろう。宴たけなわとなると、だれもかれもが唄い出し、まるで素人歌合戦。しまいには佐瀬さん十八番の「清水次郎長伝」までとび出して「内藤先生も一つお願いできませんか?」とまでエスカレートしてしまった。

―このあたりが、タモリにまでバカにされる千葉県民性。翌日、大事な対局が行っている両対局者のことなど、まったく考えに入れていないのだ。

 木更津対局が決まったとき、「いややな、ヘンピなところでは」といっていた内藤さんが、海を見渡せる対局場の「八宝苑」に入って「なかなかええとこや」と気嫌を直したばっかりなのに、またぶちこわしである。冷や冷やしていると、内藤さん、少々ヤケ気味に「陽気でええやないか!」。神戸っ子の気のやさしさを千葉県民に煎じて飲ましてやりたいと思ったものだ。

 だが、ぐっとこらえていた内藤さんは、翌日の対局中にパッとうっぷんを晴らす。

「昼食はどんなものがいいですかねえ?」とわたしが二人に聞いたときにそれが出た。まったくの澄まし顔でこういうのである。

「千葉は牛肉がうまいんやろ!」

「うん?」とわたしは詰まった。中原さんの「えっ」といって内藤さんの顔を見ている。

 神戸牛というのは聞いたことがある。しかし千葉牛は―、とまで考えてわたしはハッとヒザを打った。

 棋界通のファンの方ならもうおわかりだろう。あの佐瀬さんが”千葉の猛牛”といわれていたことを―。内藤さんは、昨夜のシッペ返しを、こんなユーモアで表現したのである。わたしが例によって「ワッハッハ」とやったので、中原さんも気が付いた。こんなときに中原さんもいたずらっ子になる。「うっふっふ。そうか、それじゃあ昼からステーキとしましょうか」。こうして千葉の猛牛」は二人のポンポンにおさめられてしまったのである。

酔っぱらい聖人

 その対局は、ステーキの効用があってか内藤の勝ち、続く六局目も内藤が勝って王位にカムバック、中原を無冠に追い落としてしまった。

 そして、昨年夏の王位戦となる。こんどは内藤王位に高橋道雄五段が挑んでいた。大方の予想に反し、内藤が一勝三敗とカド番に追い詰められての第五局が千葉市の「共済会館」で行われることになった。

 これも佐瀬さんの”浜幸なみ”の政治力から生まれた対局だった。なんたって千葉は、浜田幸一先生以下、川上紀一先生、泰道三八先生……、といろんな意味で”高名”な先生方がそろっている。

 その千葉県特有の風土を強く反映してか、佐瀬先生、まず年賀状で「ことしも千葉で王位戦をやっか」と「事前運動。しかも幸いなことに、自分のデシの高橋君が強豪を次々と倒し、あれよあれよという間に挑戦者に浮かび上がってきた。

 そうなると、担当記者も局長も千葉県在住のわが新聞三社連合も喜んで、動き出す。

 そして生まれたのが、この千葉決戦だ。

 スマート好みの内藤さん、「なんや、『ちば共済会館』やて。名前がどうも気に入らん」ともらしていたと聞くが、「新聞社の都合もあって決めたんならしゃあないわ」と気持ちよくOKしてくれた。

 ところが、である。対局の前日、内藤さんとわたしは東京駅の総武線ホームで待ち合わせていたのに、内藤さんは待てども待てども現れない。しかし、こうなることはある程度予想もしていた。

 実はこの日の朝、内藤さんはNHK杯戦の録画撮りで弟デンの森安秀光棋聖と将棋を指していた。悪いことに、その将棋の解説者が芹沢博文八段だ。この三酒豪がそろって呑まないわけがない。芹沢さんがいつも「オレは昼呑んだときは、夜寝てる。だから普通の人と同じ、ただ時間がちょっとずれてるだけなんだ」と平然としているように、この人たちには夜も昼もないのである。

 真っ昼間、東京駅のホームで一人寂しく駅弁を喰いながら待つのは少々わびしい気分。一時間ほど待って「しゃあない」と対局場に先行したが、高橋君や立会の五十嵐豊一八段、長谷部さん、世話役の佐瀬さんらが到着したのに内藤さんはさっぱり現れない。

 だが、わたしだって並みの酒呑みじゃあない。呑めば時間ぎりぎりになるくらいは百も承知だ。自室の冷蔵庫のカンビールを抜いてゆうゆうだ。あわてず騒がず、「あきれた担当記者だ」と思いつつ。

 前夜祭開始の三十分ほど前、内藤さんは”大変なお供”を連れてNHKさし回しの車でゆう然と現れた。「やあやあ、すまんかったねえ。おわびに”聖人”を一人連れてきたわ」。さすがに”神戸組組長”の貫録である。そのお供の聖人はなんと”出来上がった棋聖”森安さんなのだ。しかも、この聖人、出来上がってしまうと目茶苦茶に騒々しいから仕末におえない。

「芹沢先生と六本木で呑んどったんや。でも、わしゃ酔うとらんで」にはじまってワイワイガヤガヤ。大独演会である。

「わしゃあ聖(ひじり)じゃ。王位や王座(内藤さん)なんかよりずっとえらいんや。ビールはどこや、この王位戦の担当記者はだれや。早よう持ってこい!」

 だらしない顔で大威張りするから、とってもかわゆい。内藤さんもただカラカラ笑うだけ。わたしも従順なシモベになるしかない。すると暴君、ますますつけあがる。

「便所はどこや。これドアがあかんぞ!」

とPUSHと書かれたドアをギーギー引っぱっている。やがてさわやかな水音「ああ、気持ちええ。けど、千葉は田舎や、便所の戸がなかなかあかんのやから」そういう聖人の”紳士の窓”は下げたが上げず、開きっぱなしなのは神戸風か。前夜祭には特別立会人として大山康晴十五世名人も出席したが、なんといっても花を添えたのは、この”特別出演者”だ。わたしが隣に座ってガラにもない抑え役だが、あのいつものナゾの微笑はナゾの大笑いに変わっていくばかり。

 酔っぱらいはこうなると、人を困らせるのが面白くなるらしい。「わしゃ帰るで」と立ち上がったのを四度も玄関まで迎えに行った。

 そのうち、こんどは里心。「ユーコたんに電話してええか?」ときた。ユーコたんとは奥さんの裕子さんのこと。神戸まで10の数字を回すのだが、なぜかうまくつながらない。「おい君、笑うてないで回さんか」でようやくユーコたんが出た。

「ああユーコか、わしじゃ。わしゃいま、千葉におるんや。これから有名な栄町のトルコへ行くんや」。このあたりまでは威勢がよかったが、どこかでフニャフニャになってきた。「うん、そうか、すまんな、あした早よう帰るから」と単語がポツポツ出てきたのは、権威がなくなってきた証明だ。

 それからまた、内藤さんらと外へ出て呑みまくったが、棋聖にはもう最初の迫力はない。「そうや、わし、あした加藤一二三先生と対局やった」と一人タクシーに乗り込んだのは十一時近くだった。

 ハゲ山の一夜のごとき夜はあけた。大事な一局の前、神聖な朝の空気は静かだ。早起きの大山名人は、もう起きて新聞の株式欄に目を通している。そしてポツリ、「きのうの前夜祭は大変だったね。さすがの能智 さんもさっぱり酔えなかったみたいですね」

―見られていたんですよ、”聖さま”!

 こんどは翌々日、その聖人さまから電話。久しぶりに正気の声である。

「内藤先生の将棋はどうなってます?わたしはもちろん勝ちましたよ。加藤先生、二日酔いを見抜いてじっくり指してくれたんで、その間にぼくは酔いをさましてしまいました」といってから”ザンゲ”がはじまる。「おとといのこと、ぜんぜん覚えてないんです。気が付いたら新宿でした。何か悪いことしませんでしたか?」―なにおかいわんやだが、わたしとてよくあること。「ええ跡とりがでけたな、能智さん!」と内藤さんも”かわいい弟”の成長がうれしそうだった。

(つづく)

* * * * *

棋聖が飛び入りで登場する豪華な前夜祭。

当時の六本木で昼から飲むことができる酒場はそうそうなかったから、レストランでワインをたくさん、あるいは中国料理店で紹興酒などをたくさん飲んできたということなのだろう。

* * * * *

1983年に千葉大女医殺人事件という事件があった。

犯人は夫(研修医)で、千葉・栄町にあるフィリピンパブのフィリピン人ダンサーに夢中になり、妻が邪魔になっての犯行だった。

この事件はワイドショーなどでも大きく取り上げられた。

私の叔母が犯人の写真を見て、私が犯人ではないかと思い、心配をして母に電話をしてきたということもあった。

それほど似ていないと思うのだが、見る人によってはそう見えるのだろう。

それはともかく、1989年2月、千葉市の繁華街で顧客の接待をした時のこと。

一次会が終わって「もう一軒行こうよ。いい店を知ってるんだ」という顧客の誘いで行った店はフィリピンパブだった。

私「そういえば、千葉大女医殺人事件の犯人はフィリピン人女性に夢中になっていたんですよね」

顧客「ああ、あの事件ね。その子が勤めていたのはこの店だったらしいよ」

社会人になってから千葉県で酒を飲むのはこの時が初めてだったが、よりによって不思議な縁と言うか、なるほど、という言葉しか出なかった。

店のスタッフも誰も、私の顔を見て驚いてはいなかったから、自分はやっぱり犯人とは顔は似ていないんだ、と思ったものだった。

平成になったばかりの頃の千葉の思い出。