将棋マガジン1987年7月号、塚田泰明七段(当時)の「史上最短の四間飛車撃破」より。
4月の、ちょっと寒い日の夜、ある女性と会う。
待ち合わせは、とある高層ビルのエレベータの前。
僕が定刻に行ってみると、彼女は受話器に向かって話をしていた。
「誰に電話しているのかな?」
そんな事を思いながら声を掛ける。
エレベータは一目散に29階へ。
このエレベータはガラス張りになっている外が見える。なのに彼女はうつむいたまま。
「どうして下向いてるの?」
「エレベータ嫌いなの」
彼女はエレベータが苦手らしい。
食事は彼女が前に、好きだと言ったお寿司にする。
でも彼女の箸はあまり進まない。
「どうしたの、疲れてるの?」
「ううん、そんな事ない」
少し飲んだビールも、ちょっとは勇気の足しになったのか、
「今度、部屋を借りたんだけど、来ない?」
と、高層ビルを出たあたりの時に、思い切って言ってみた。
短いはずの、とても長い時間の空白。
「実は前から、言わなきゃいけないと思っていたんだけど……」
と彼女。
「昔から付き合っている人がいて、多分その人と今年中に結婚すると思う」
突然、何が何だか分からなくなる。
彼女は彼の事を話し始める。僕も、聞いたりしているが、その間、二人の足は、もちろん僕の部屋ではなく、彼女の帰るための駅へと向かっている。
「今まで黙っていてごめんね」
「ううん、別にいいよ」
言いながら、心は大きく揺れている。
それでも、最後の優しさのつもりで、彼女を改札口まで送る。
「幸せにね」
と、とって付けたような台詞。それが二人の別れの言葉。
彼女が、次第に僕の前から遠ざかっていく。そして、その後ろ姿も、都会の雑踏の中に。いつの間にか消えていく―。
と、いうところで目が覚めた。
「ああ、そうか、夢だったのか。良かった……」
そういえば、彼女の顔が、今だに浮かんで来ない。
単なる夢だったのか、それとも違うのだろうか。
(以下略)
* * * * *
これが夢だったのか、あるいは現実にあったことだったのかは別として、いろいろと調べた結果、このビルは新宿NSビル (地上30階、1982年10月竣工、エレベータがガラス張り)と思われる。
新宿NSビルの29階には、現在「すし屋 銀蔵」があるが、2012年開店なので、その頃は違う寿司店だったということになる。
この頃の塚田泰明七段(当時)は新宿のマンションに住んでいた。
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「昔から付き合っている人がいて、多分その人と今年中に結婚すると思う」
二人のそれまでに関係にもよるが、突然、このように言われたら、ほとんどの人が何が何だか分からなくなるだろう。
夢であっても現実であっても、切ないことに変わりはない。
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個人的な話になるが、最近、ある特定の科目(微分方程式論であったり化学であったりする)が全く理解できなくて、大学の卒業を断念するという夢を複数回見ている。
悲恋の夢でもいいから、もっと潤いのある夢を見たいものだと思っている。