升田幸三実力制第四代名人「饅頭屋の息子で、おとなしい子だったが、将棋はなかなかしっかりしていた。うん、才能があった」

将棋マガジン1987年8月号、福本和生さんの「名棋士を語る 桐山清澄棋王の巻」より。

「奈良の吉野川の上流に下市町という静かな所があって、そこに避暑に出かけましてね。芝居の”義経千本桜”の舞台になった所で、名物の鮎ずしを食べながらのんびりしていると、将棋の強い子がいるから指してみてくれという。旅のつれづれでその子を呼んで指してみましたらね……」

 なつかしそうに話すのは升田幸三元名人で、将棋の強い子というのは桐山少年である。30年ほど昔の話である。

「饅頭屋の息子で、おとなしい子だったが、将棋はなかなかしっかりしていた。うん、才能があった」と当時を追想して目を細めるヒゲの先生。

 桐山少年は東京の升田家で内弟子になるが、すぐに郷里へ帰ってしまう。

「中野に住んでいる頃だった。ちっちゃい子だから母親が奈良から連れてきた。やがて母親は帰ることになったが、その子が駅まで送っていくという。中野駅かと思っていたら、これが東京駅までついていってしまった」

 ヒゲの先生は、この子は勝負師には向かないと思ったそうだ。

 13歳で実家を飛び出して、日本一の棋士を目指したヒゲの先生の目からは、なんとも軟弱に映ったのだろう。

 しかし、中野駅まで送るつもりでいたのが、母の膝が離れがたくて東京駅までついていった、というエピソードは、ほほえましくて私は好きだ。桐山の人間としてのやさしさがうかがえる。

 ここで将棋を断念していたら、桐ちゃんは今頃は吉野川の清流を眺めながら家業に励んでいたかもしれない。

 好きな将棋が指したい、の思いはつのるばかりで関西奨励会に入った。この頃、桐山少年は自分でもあきれるぐらいよく負けた。奨励会員が対戦相手が桐山と聞くと、対局前から白星をもらった気になっていたそうだ。気弱さが抜け切っていなかったのだろう。東京駅で母にすがって泣いた少年は、今度は敗局のくやしさから夜空の星を見上げながら涙することになる。これで”鬼”どもがひしめく勝負の世界で生きていけるのだろうか―。

 今期の第10期棋王戦。挑戦者の桐山は米長棋王を撃破して初の棋王位に。いまをときめく米長を下してのタイトル獲得はみごとである。

(以下略)

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名人戦を戦っている豊島将之二冠の師匠の桐山清澄九段の子供時代。

中野駅ではなく東京駅までお母さんについていってしまったのが、涙が出そうになる。

福本和生さんが書かれているとおり、桐山九段の優しさの原点なのだと思う。

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桐山少年はホームシックで泣いてばかりいたので、さすがの升田幸三九段も桐山少年を故郷に帰すことになる。

「マスダ」と縁があったようで、桐山少年は関西に戻ってから増田敏二五段(当時)門下となる。

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桐山九段の出身地である奈良県下市町は、平安時代の頃から吉野の入り口として栄えた町で、現在の人口は5,420人。

「義経千本桜」は1747年初演の人形浄瑠璃および歌舞伎の演目で、壇ノ浦で滅んだはずの平家の武将たちが実は生きていたという設定。

三段目「鮨屋の段」が下市町が舞台となる。

この鮨屋は、800年以上も前から店を構えている日本最古の鮨屋「つるべすし弥助」。

升田幸三九段が鮎ずしを食べていたのもこの店である可能性が高い。

天然鮎の懐石料理を、800年前に創業した現存最古の鮨屋でいただく(旅ぐるたび)