将棋マガジン1993年3月号、高橋呉郎さんの「蛸島彰子 『続ければ人生』の道のり」より。
女流プロの対局で、いくつか強く印象に残っている場面がある。
たしか山田久美二段が初めて女流王将リーグに参加したころだった。谷川治恵三段とのリーグ戦の一局を観戦した。
将棋は午後の早い時間に終わった。感想戦にはいって、別室で順位戦の対局をしている芹沢博文九段が顔を見せた。芹沢は、しばし指し手の進行を眺めていたが、やおら盤側に腰をすえた。時間にすれば30分以上、その場は、さながら「芹沢将棋教室」の観を呈した。両対局者とも緊張した面持ちで、芹沢の解説に聞き入った。
感想戦に居合わせた某六段が、あとでしみじみといっていた。
「あれは、芹沢先生の将棋に対する愛情ですよ。あのふたりが、それを感じとってくれればいいんですけどね。解説の意味を理解するより、そっちのほうが大切なんですよ」
私は、あらためて、将棋の修行とはそういうものなのか、と教えられたような気がした。
乙女の本性に刮目させられたこともある。
第1回レディースオープン・トーナメントは、注目の大型新人、清水市代初段(現女流王将)が決勝戦に進出した。相手は中井広恵女流名人。
女流プロは対局中、絶対にといっていいくらい口をきかないが、表情は、それほど硬いわけではない。中井は、すでにタイトル戦も経験しているので、所作にも余裕が感じられた。清水のほうは、対局開始前から終始、ピクリとも表情を動かさなかった。
よく親が子どもに「外で知らないオジサンに声をかけられても、返事をしちゃいけませんよ」と教える。清水は、そんな親の言葉を忠実に守っている子どものようにみえた。
将棋は清水が勝ったが、感想戦でも、かたくなに表情を崩さなかった。検討も終わり、中井が帰ったあとに、共同通信のN記者が現れた。Nさんは清水とは自宅も近く、何年も前から将棋の相手をしていた。さっそく棋譜を並べはじめた。
中井に敗着が出た局面で、Nさんは清水に「ここで”しめた”と思ったんじゃないの?」と声をかけた。清水は、かすかに頬をゆるめて答えた。
「アタリィー!」
一瞬、わが耳を疑いましたね。朝からニコリともしなかった、この少女の口から、そんな軽ノリの台詞が出てくるとは、想像もできなかった。どうやら私は完全に化かされていたらしい。NHKの将棋講座で聞き役をつとめる自水をみれば、「アタリィー!」が本性であることは容易に理解できる。
女流王将リーグの蛸島彰子五段対谷川三段の一局も忘れがたい。対局日も、はっきりおぼえている。昭和64年1月7日―昭和天皇逝去された日、あるいは「昭和」が終わった日といってもいい。
対局開始前に連盟職員の指示で、1分間の黙祷をした。土曜日ということもあって、対局は、この一局しかない。館内は、やけにひっそりとしていた。やがて、黒の正装をまとった二上達也将棋連盟副会長が入室し、しばし記録係と席を並べた。館内に不都合なことがないか、会長自ら見回り役を買って出たらしい。なんとなく、学生寮の部屋に舎監が監督にきたような、雰囲気がないではなかった。
昼食休憩の間に、某スポーツ紙が取材にきた。天皇崩御をどのように受け止めているか、巷の声を集めているという。取材を受けた蛸島は気になるのか、再開前、私に援軍を求めるようにいった。
「将棋を指していたなんて書かれたら、不謹慎だといわれないでしょうか」
私は「そんなことはないですよ」と答えた。ざっと理由もしゃべったが、ここで再説するまでもないだろう。屋内で黙々と将棋を指すのが不謹慎というなら、生きていること自体が不謹慎になってしまう。
しかし、蛸島が気にするのもむりはないような気もする。いうまでもなく、蛸島は女流プロ棋士の草分けである。タイトルをもっていなくても、リーダーであることに変わりはない。そのコメントは、女流プロ棋士を代表する発言と受けとられる。当日の状況を考えれば、気にならざるをえない。
(以下略)
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昭和64年1月7日(土)は、つい3時間前まで飲んでいたにもかかわらず、朝6時頃に目が覚めた。
つけっぱなしのテレビ(酔っ払って帰って寝落ちしたのでテレビはついていた)が、ただならぬ雰囲気。
そして、午前6時33分に天皇陛下崩御のニュース速報が流れた。
その日は一日中、ボケっとしながらテレビを見ていたと思う。
昭和の頃のことが急に懐かしく(といっても、この日はまだ昭和だが)思えてきたものだった。
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「屋内で黙々と将棋を指すのが不謹慎というなら、生きていること自体が不謹慎になってしまう」
まさしく名言。