将棋世界1986年6月号、たつの香太さんの第44期名人戦〔中原誠名人-大山康晴十五世名人〕第1局観戦記「中原、イビアナで楽勝!」より。
「えらいことが起きるもんだ」
将棋ファンなら誰でもそう思う。
大山康晴十五世名人、63歳である。名人戦史上、対局者の最高齢は、過去升田幸三元名人の53歳。鉄人、大山はその記録を一気に10歳も伸ばした。この人が2年前にガンの手術をしたという。今となっては、医師の診断書でも見なくては、とても信じられぬ話である。
「その年になって疲れませんか」
聞かれると、大山はいつも笑いながら「そりゃ、若い人みたいな体力はありませんよ」と答える。大山の言う、若い人とは誰のことだろう?二上、加藤一、米長、中原、谷川、中村、高橋、羽生…。この中で、今の大山以上に体力があるのは何人いるか。考えるとぞっとする。
(中略)
話は3月23日のプレーオフ、大山-米長戦に戻る。記者は、この対局に米長が負けたことが不思議で仕方がなかった。若さ(63歳と42歳)、勢い(順位戦の後半2勝3敗と5連勝)、対戦成績(過去5年、米長の12勝9敗)、実力(無冠と二冠)と、どれをとっても米長には負ける要素はなかったはず。が、結果はあの惨敗。
上にはあげなかった勝負の要素に、精神力がある。米長といえば、週刊誌の人生相談をするくらいだから、その度胸、人生哲学には人並みはずれた自信を持っていたはず。しかし、あの日の大山の精神力には、米長を上回るものがあったとしか思えない。米長ほどの者でも、名人の重みに敗れたのだろうか。とにかく、米長名人誕生は今年もなくなった。
(中略)
大山が挑戦者に決まったあと、「やっぱり中原名人は運がいいね」という声を何度か聞いた。挑戦者が米長なら危なかったが大山なら楽だというわけだ。
が、本当にそうだろうか。記者は逆じゃないかと思う。米長は確かに強敵だ。しかし、中原にとっては負けても許される相手である。大山は違う。もし、ここで中原が大山に敗れたら、中原は名人になってからの10数年間、何をしていたのかということになってしまう。少なくとも精神的には、米長より大山の方がイヤな相手のはずである。
力から言っても、大山は実際強い。順位戦とプレーオフで8勝4敗という現実が何よりそれを証明している。第一、中原自身が昨年名人に返り咲いた時のインタビューで「自分以外の棋士の中で一番強いのは大山先生だ」と即答しているのだ。
中原にとっては一番やりにくい相手が今の大山なのではないだろうか。
大山の振り飛車に対して、注目された中原の作戦は居飛車穴熊だった。穴熊は好き嫌いのある戦法だ。しかし中原としては素直に過去のデータから見て、有利な戦型を選んだのだと思う。
(中略)
急戦や中途半端な持久戦には、圧倒的な強みを見せる大山振り飛車も、居飛車穴熊にだけは、このところ苦しめられるシーンが多いのである。昨年度の順位戦の4敗のうち3敗までが、対居飛車穴熊。田中寅彦八段の居飛車穴熊には、現在、4連敗中なのである。あの谷川棋王などは、はっきり「大山先生にしか、居飛車穴熊はやりません」と言っているほどだ。中原は居飛車穴熊の経験はそれほどでもないが、二上、加藤一、米長らに比べれば、意識せずに使っている。
「大山先生の振り飛車とは最近指していないからこれから研究します」と名人戦の前に話していた中原だが、その研究の結論が、この戦法だったのである。
☆第1局を見た田中寅彦八段の話
僕は開幕前の予想で、大山名人が4勝3敗で勝つと言ったんですけどね、中原さんがこの戦法でずっと行ければ大丈夫です。振り飛車というのは、玉を固めて待っているだけという戦法ですからね、逆にこっちがもっと固めてやれば、簡単に良くなるんですよ。問題は居飛車穴熊が邪道とかいう偏見があるでしょう。中原さんがその偏見にまどわされず、居飛車穴熊を指し続けることができるかどうか、そこが勝負だと思います。
(中略)
1日目の朝、8時53分、大山と中原がほとんど同時に対局室に入ってきた。対局場は静岡県浜松市の「グランドホテル浜松・聴濤館菊の間」。12階建ての近代的なホテルだが、対局場は離れになっていて純和風の落ち着いた設計だ。
浜松地方は朝から雨。ホテルから対局室までの数十メートル、対局者をどうやって運ぶか、関係者が協議していたところ(対局者は和服に草履だから歩きにくい)大山は「こんなの何でもない」といいながら雨の中をスタスタ歩いてきた。
そういえば、この朝の大山は、周りが驚くほどピリピリしていた。鴨居に取りつけられたテレビカメラのマイクを見つけ、「音を取るのは聞いてない、すぐ取りなさいよ」庭からテレビ局のカメラマンが中を映そうとすると、障子をピシャリと閉め、「外からは映さないように」室内に外の声が入ってくるのを気にして「うるさいよ」。
この名人戦、特に大山に対するマスコミの取材ぶりはすさまじい。それでも将棋関係の記者やカメラマンは、立ちぶるまいを心得ているが、今回は外部の報道関係者も多い。大山は将棋界の礼を、それとなく教えたのかもしれない。
3図以下の指し手
▲4六角△4五歩▲3七角△7三金上▲4六歩△同歩▲4八飛△7四歩▲6六銀△7二金▲4六角△4四歩▲7五歩△7三角(4図)中原の▲7五歩を巡って、7筋での小競り合いが始まった。大山の△7二金(2図)では、△7四歩と先に打っておけば、小競り合いはそこで終わっていたはず。中原が▲4六角と飛び出して、何だか雲行きがおかしなことになってきた。続く大山の△4五歩が第一のミス。ここは単に△7三金直と上がっておくところだった。
△4五歩を突いたために、先手にあとで▲4六歩から2つ目の歩を持たれることになった。この2つ目の歩が大きかったのである。
△4四歩に3度目の▲7五歩。この▲7五歩はうるさい。△同歩なら▲同銀と進み、△7三金直と受ければ▲3七桂。そこで△7四歩▲6六銀△7二金なら、また▲7五歩と合わす。つまり先手だけ一手ずつ指せる勘定だ。
大山が△7三角と上がったところで、中原が次の手を封じ、1日目が終わった。
(中略)
2日目朝、8時52分に中原が入室。続いて2分後に大山が入室。大山はいきなり手帳を出すと、毎日新聞の記者と打ち合わせを始めた。
「加古さん、この飛行機8時よりもっと早くてもいいんだよな。そうすれば次に出かける前に、うちに帰れるんじゃないかと思って」
あとで聞けば次の日のことではなく、第3局終了後の打ち合わせである。大山の手帳はさながら時刻表だ。
4図以下の指し手
▲7四歩△同銀▲7八飛△8三銀▲7四歩△同銀▲同飛△同金(5図)封じ手は▲7四歩。続いて△同銀▲7八飛と進む。2日目の対局が始まったばかりで、控え室はのんびりムード。まだ誰も中原の狙いに気づいていない。大山が△8三銀と引き、中原が考え出した時に副立会の石田和雄八段が「アレッ」と声を出した。「これはすごい手がある」と石田。▲7四歩とたたき、△同銀の一手に▲同飛とたたっ切る手がありそうだという。検討してみると、意外なほど先手の手が続く。しかし、それでも検討陣は半信半疑。なにしろ飛車銀交換の攻めである。
言い出した石田も「この大事な将棋じゃ中原さんもやりにくいんじゃないかなあ。大山名人は、こんな手でつぶされるはずはないと思ってますよ」この読みは半分当たって半分はずれた。大山は確かにこの筋を軽く見過ぎていた。△8三銀では△9二玉と角筋をかわしておくところ。ここから▲7四飛△同金▲7五歩は△8五金▲7四歩△8二角と8二に角を引ける。
中原の▲7四歩が控え室のモニターに映り、同時に「やった」の声が上がった。
(中略)
大山に対して穴熊を用いるのは、長引かせて体力勝ちを狙ったもの、という説があるが、記者はこれには反対だ。大山の体力は普通の63歳の物差しではとても計れない。体力的には、むしろ中原より上なんじゃないか、というのが名人戦の4日間を見た記者の実感だ。
大山は眠っている間は分からないが、少なくとも起きている間は、一瞬たりとも頭と身体を休めないのである。少しでも時間が空けば麻雀。麻雀は3日連続で午後12時近くまで打った。昼食休憩には、必ず誰かに碁を打たせて、それを嬉しそうに見物。そういえば朝食は、3日間ともバイキング形式の洋食である。大山に言わせると「和食より、自分でいろいろ考えて選べるからいいんだよな」。
大山の体力はどう考えても年齢とは切り離して考えるしかないと思う。
時刻は2日目の午前、まだ10時を回ったばかり。しかしこんな戦いが始まっては誰ものんびりしてはいられない。
5図以下の指し手
▲7五歩△6五歩▲5五銀(6図)▲7五歩で金は逃げられない。△6五金と逃げれば▲7四歩△6二角▲6五銀で金がタダである。△6五歩は絶対の反撃だが、そこで▲5五銀(6図)と出た手がいい手だった。
(中略)
この一局では盤上の駒が3度姿を変えた。こういうことも珍しいだろう。
1日目の午前中に使われたのが、香月作の王義之書。昨年、将棋連盟から中曽根首相に寄贈したものだが、それを名人戦で一度使わせてもらおうというわけだ。1日目の午後は、地元浜松支部の顧問・渥美雅之さん所蔵の宮松。そして2日目の朝からは将棋連盟秘蔵の名人駒。その奥野作の銀が5五で胸を張っている。
6図以下の指し手
△7五金▲6四銀△7四金▲7三銀成△同桂▲5三角(7図)先手の▲5五銀は取れない。△5五同歩は▲7四歩△6四角▲5五角△同角▲同歩で先手優勢。△7五金は仕方なかったが、▲6四銀で駒損は回復できる形になった。後手の大山の望みの綱は、先手が歩切れになっていること。大山は、ここでもまだ「先手の攻めは無理気味、しのげる」と見ていたらしい。しかし、中原の攻めは、最後まで切れなかった。
角を取ったあと、ぼんやり▲5三角と打ったのが中原らしい一手。ここで▲7五銀と打ち、△同金に▲3一角を狙うような攻めもあるが、▲5三角の方が手厚さで優る。
▲5三角に△4二銀なら、▲6四角行△同金▲同角成△6一飛▲7四金とからんで、これはとても切れそうにない。自陣飛車を打つような変化では後手に勝ちはないのである。
局後の大山の第一声は「▲5三角を打たれて、わからんかった。うまい角だったな。なんか手がありそうでないんだよな」だった。見れば見るほど、うるさい角なのである。
悩みに悩む大山、次の一手は本局一番の長考になった。
2日目、昨日からの雨は上がったと思っていたら、昼前からまた降り出してきた。おまけに風も。対局室の前庭の滝がななめに落ちている。
7図以下の指し手
△4九飛▲3一角成△3二飛▲同馬△同銀▲6一銀△6三銀▲3一飛△4三角▲7二銀成△同銀▲6二金△4一銀打(8図)大山、大長考の末△4九飛。これは攻め合いを狙った手ではなく、とにかく相手の攻めを急がせて、受けに回ろうというのである。攻め合いを狙うには、先手の玉はあまりに固い。
(中略)
本譜の△4一銀打に対しても、次の一手のような決め手がある。中原の手は早かった。
☆田中寅彦八段の話
石田八段が、大盤解説でアマチュアの人は穴熊をやると強くならないから、やめた方がいいということをおっしゃってますけどね、僕としてはそういうこと言われちゃうと困っちゃうんですよね。せっかく出した穴熊の本が売れなくなっちゃいますからね。(笑)それはともかく、僕は穴熊を指すから強くなれないというようなことは絶対にないと思ってます。だって現実に、一番偉い名人が穴熊指して勝ってるんですから。第2局以降も是非穴熊をやってもらいたいですね。
(中略)
8図以下の指し手
▲2四歩△4六飛成▲2三歩成△7八歩▲同金右△7七歩▲同銀△8五桂▲3二と△同角▲7五歩△7七桂成▲同桂△7六歩▲7四歩△7七歩成▲7二金(投了図)
まで、111手で中原名人の勝ち▲2四歩。この一手で後手は完全にしびれた。△2四同歩なら▲同角と角に逃げられてしまう。▲2四歩に△2九飛成はありそうだが、▲2三歩成△同竜▲4二歩で全くダメ。後手陣は一歩持たれたらおしまいなのである。
「▲2四歩は分かってても、受けがないもの、仕方ないでしょ」と大山。ここでは、すでに勝負はあきらめ、△7八歩以下は形づくりである。
(中略)
終局は、春の日もまだ高い午後4時3分。「終わりました」という新聞社の係の人の声が控え室に伝えられると同時に、20人近くの取材陣がどっと対局室に雪崩れ込む。
感想戦の大山は「受かると思ったけどねえ、以外にうるさかったなあ」を何度となく繰り返したが、その表情はむしろさばさばしていて暗くはなかった。
一方の中原は、汗をかいた首筋をおしぼりでぬぐいながら、いつもと変わらぬ淡々とした態度。感想戦では仕掛けたあとの変化がいろいろ検討されたが、ほとんどすべての変化が中原の勝ちになる。この名人戦第1局、盤上以外の進行は、すべて大山のペースによって進められていた。感想戦でも緩めずしっかり勝ったのは、中原がちょっぴり見せた意地だったのかもしれない。
感想戦が終わったのが午後5時。「夕食まで半荘1回できるから」と言って大山が立ち上がった。
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63歳で名人戦挑戦者になるのだからすごいという思いと、大山康晴十五世名人ならば全く不思議ではないという思いが交錯する。
この3年後にも大山十五世名人は棋王戦で挑戦者となっているので、とにかくすごい。
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「本当にそうだろうか。記者は逆じゃないかと思う。米長は確かに強敵だ。しかし、中原にとっては負けても許される相手である。大山は違う。もし、ここで中原が大山に敗れたら、中原は名人になってからの10数年間、何をしていたのかということになってしまう」
この部分は、個人的には賛同できない。
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「問題は居飛車穴熊が邪道とかいう偏見があるでしょう。中原さんがその偏見にまどわされず、居飛車穴熊を指し続けることができるかどうか、そこが勝負だと思います」と田中寅彦八段(当時)が語るほど、この頃はプロの間では居飛車穴熊が精神的に盤石の地位を占めていたわけではなかった。
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5図から7図の中原誠名人の指し回しは、次の一手のような展開で、非常に見事。
ただし、▲5三角(7図)だけはいくら考えても思い浮かばない中原流の手だ。
8図からの▲2四歩も勉強になる。
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この名人戦第1局については、以下の3つの記事もご覧いただくと、もっと立体的になる。