将棋世界1987年2月号、清水孝晏さんの「将棋史人名録」より、江戸時代の将棋師の給与について。
これまで棋譜や詰将棋について調べていたが、ふと江戸時代の将棋師の生活はどのようになっていたのだろうか?と思った。幸い、ここに大橋宗金に関する古文書が2通あるので、それによって述べてみよう。
明細書
祖父 大橋宗桂
父 大橋宗桂
拾人扶持 本国近江 大橋宗金
生国武蔵 当 十五歳
嘉永二酉年十二月十五日 初而
嘉永六年正月十六日新規拾人扶持下之候。もう一通には
拾人扶持 部屋住 大橋宗金
請取申御扶持方之事
米合四斗五升 但京升也
嘉永六年正月朔日より三月晦日まで日数
八十九日分 拾人扶持 請取申不実正也
嘉永六年三月 将棋之者 大橋宗金
美濃部庄右衛門殿
三雲 彰左衛門殿四斗五升を八十九で割ると一人扶持が一日米五合であったことがわかる。
これによって拾人扶持は年に十八石二斗五升のお手当で、これを一升700円の現在に置き換えると年俸1,277,500円。1ヵ月10万円弱。毎日勤めるわけではないからまあまあといえよう。親の宗桂の二十石十人扶持(267万円)のほうは大変だったろう。が、屋敷は拝領であり、免状の発行報酬があるので、やりくっていけたのではないかと想像する。この辺が生かさず殺さずの徳川政策のうまさといえよう。
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嘉永6年は1853年。
大橋宗金(1839年-1910年)は大橋家の12代当主。将棋師としては大橋家最後の当主。五段だった。
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拾人扶持とは、10人分の米が現物支給されるということ。
一人扶持は、男性の場合一日米五合、女性の場合一日米三合と定められていた。
大橋宗金はこの頃はまだ当主ではなかった(部屋住)ので、10人分の米の現物支給のみだった。
現在の米の値段は、清水孝晏さんが書いた1987年の金額とあまり変わらないので、年俸は約128万円相当。
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二十石拾人扶持は、将棋所の当主の江戸時代の初期以来変わらない年俸。
二十石拾人扶持は、米二十石分相当の現金+10人分の米の現物支給ということになる。
米二十石分相当の現金とは、一石=1両だったので、年間20両。
しかし、1両が現在の何円になるのかが意外と難しい。日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によると、
- 米の値段で換算すると63,000円
- 大工の賃金で換算すると345,000円
- 蕎麦の代金で換算すると、1両で406杯分の蕎麦。立ち食い蕎麦店のかけそばが300円として121,800円、普通の蕎麦店のかけそばが500円として203,000円。
→江戸時代の1両は今のいくら?(日本銀行金融研究所貨幣博物館)
非常に乱暴に計算すれば、
二十石分相当の現金=126万円~690万円
ただし、二十石分相当の現金は手取りでは二十石の35~40%(幕府が農家へ課税している税率に相当)らしく、なおさら訳がわからなくなる。
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ちなみに、奉行所の同心(必殺シリーズでいえば中村主水)の給与が30俵(=12石)2人扶持だったので、将棋師の給与は同心をかなり上回っていたことが分かる。
なおかつ、毎日勤めるわけではないので、免状の発行などを継続的にやれれば、生活には問題がなかったと考えられる。
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江戸時代の幕府から出る給与の世界は、調べれば調べるほど奥が深そうなので、とりあえずはこの辺に留めておきたい。