羽生善治四段(当時)の「タイトルホルダーに挑戦」

将棋世界1987年7月号、池崎和記さんの「新人賞・羽生、タイトルホルダーに挑戦・第2局〔羽生善治四段-桐山清澄棋聖〕観戦記「羽生、『棋聖』も圧倒!」より。

将棋世界同じ号グラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

 16歳のスーパールーキー羽生の実力がタイトルホルダーにどれだけ通用するかお手並み拝見―というわけで始まった本企画。

 いざフタを開けてみると初戦(対中村王将戦)は羽生の圧勝。体調が悪かったとはいえ、不出来の内容に王将が「手合い違いでした」と嘆いたという、ウソのようなホントの話も残っている。

(中略)

 5月5日。子供の日の関西将棋会館。

 羽生はこの日、新幹線で大阪入り。前日は千葉そごうデパートの将棋まつりに出席したという。

(中略)

 午後1時、羽生の先番でスタート。

 △8四歩と指してから桐山棋聖が「前局はどうでした」と聞く。本誌6月号がまだ出ていなかったので、棋聖は第1局の結果を知らなかったのである。羽生勝ちを伝えると、棋聖は「ホホーッ」と小さな声でつぶやき、驚いたような、感心したような、複雑な表情をみせた。

(中略)

 祭日なので、ほかに対局はない。3階の控え室に行くと、数人の奨励会員が棋譜を並べたり、練習将棋を指したりしている。みんな羽生と同じ10代の少年たちだ。修行中の身だから、日々勉強。ゴールデンウィークも、彼らには何の意味もない。

 なかの一人が言う。

「いいなぁ羽生先生は。タイトルホルダーに教えてもらえて……」

 心底うらやましそうだ。強くなる最良の方法は上位者と指すことだと体験的に知っているから、こんな言葉が出てくる。

 礼儀正しい少年たちを見ていると「早く四段になってほしい」といつも思う。四段になれば、対戦相手はみんな上位者になる。名人とだって平手で指す機会も与えられる。だから四段になるのは早ければ早いほどいいのである。

(中略)

「私は、羽生名人説を引っ込めようかと考えている」

 と河口六段がNHKの将棋講座5月号に書いている。羽生以後に、村山聖四段、佐藤康光四段、森内俊之四段ら、終盤が「大山、米長の強さとは違う、機械のような正確さがある」若手が控えているとし、こう結論する。

「(羽生は)名人候補に違いないが、懸念されるのは、今、名前の出た諸君に追い越されることである。まったく、あの天才羽生を抜こうかという者が何人もいるのだから、恐ろしい時代になったものである」

 似たような話を最近、島六段から聞いた。六段は、羽生を筆頭とする強豪少年たちの台頭に脅威を感じているらしい。

「インベーダーみたいに次から次へと出てくる。子供アレルギーになっちゃいました。うっかり”子供カード”を引こうものなら地獄。もうボクたちに未来はありません」

 24歳の六段がこう言うのである。

(中略)

 飛先交換腰掛け銀の対抗型。もともとは昭和20年代に大流行したといわれるクラシックな戦法だが、その後、中原名人や米長九段、内藤九段、谷川九段らによって指し継がれ、現在に至っている。

 角と角が向き合っているので、互いに爆弾を抱えているようなもの。中盤を素通りして一気に終盤になだれこむ激しさをもっているので、スピード将棋愛好者でなければ指しこなせない。一手のミスが即負けにつながる恐れがあり、スリルがある代わりに極度の緊張を強いられるから「精神衛生に悪い戦法」といえなくもない。

羽生「公式戦ではあまり経験はありませんが、練習将棋ではよくやっています」

 羽生は居飛車のオールラウンドプレーヤー。多彩な戦法に挑戦しているのは、たぶん自信の表れだろう。強い人はどんな戦法でも自分のものにしてしまう。

(中略)

 何の雑誌かは忘れたけれど、以前、羽生の部屋がグラビアで紹介されたことがある。新四段になった直後だと思う。整然とした室内に、大きな天体望遠鏡があったのが印象に残っている。

 天文学者と産婦人科医は常人とは違った人生観を持っている―というのは私の持論だけど、まあそんなことはどうでもよい。天体望遠鏡は「夢見る少年」が所有するものだ。高校生と天体望遠鏡の組み合わせがおかしくて「見かけによらずロマンチストなんだな」と感心した記憶があるが、あとで本人から「あれは撮影用で……」と聞かされてガッカリしたことがある。小学時代の遺物だったようだ。

(中略)

 羽生将棋は「終盤が強い」というのが定説になっているが、どうもそれだけではないようだ。実際に羽生と対局したことのある棋士たちに、羽生将棋の印象を聞いてみた。

中村王将「バランスがいい将棋」

島六段「洗練された将棋。勝負に辛い」

森信五段「粘りがある」

谷川九段「私は非公式戦も含めて2連敗しているので、批評する資格がない」

桐山棋聖「名人候補の可能性を秘めているが、これから実績をどう作っていくかが問題」(棋聖は本局が初手合い)

(中略)

 棋聖の△4六銀は一瞬ハッとさせる手。▲同玉と取らせて△4八飛で王手金取り。△7八飛左成で7四の飛車にヒモがついたが、▲7七歩と打たれて万事休す。

 棋聖は1分考えて「これはないですね」と言った。

(以下略)

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1987年の将棋大賞新人賞を受賞した羽生四段の「新人賞・羽生、タイトルホルダーに挑戦」が将棋世界1987年6月号から始まっている。

羽生四段が時のタイトルホルダー全員と対局するというもので、

第1局 対 中村修王将・・・羽生四段の勝ち
第2局 対 桐山清澄棋聖・・・羽生四段の勝ち
第3局 対 高橋道雄王位・棋王
第4局 対 福崎文吾十段
第5局 対 中原誠名人

のスケジュール。

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「私は、羽生名人説を引っ込めようかと考えている」と河口俊彦六段(当時)が言うほど、村山聖四段、佐藤康光四段、森内俊之四段の躍進ぶりが目立っていたということ。

まだ、同世代の郷田真隆九段、藤井猛九段、丸山忠久九段が四段になる前の話だから、これから河口六段はもっともっと驚くことになる。

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「(羽生は)名人候補に違いないが、懸念されるのは、今、名前の出た諸君に追い越されることである。まったく、あの天才羽生を抜こうかという者が何人もいるのだから、恐ろしい時代になったものである」

この同世代の切磋琢磨が、それぞれを(意識はしなくても)お互いに高めあうことになり、将棋界が大きく変わることになる。

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「整然とした室内に、大きな天体望遠鏡があったのが印象に残っている」

その写真は、次に記事の後半で見ることができる。

羽生善治四段(当時)インタビュー(後編)

たしかに、言われてみると、部屋のこの場所に突然 天体望遠鏡があるのは不自然といえば不自然だ。

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将棋世界同じ号、小泉勝巳編集長(当時)の編集後記より。

 桐山-羽生戦で羽生四段と同行の折、その人柄の良さ、「透明感」とでもいうのでしょうか。短い時間の中で感じました。我が身の16歳はどうだったのか、今となってはその記憶は遠い彼方です。

将棋世界同じ号グラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

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早朝東京発→13時から関西将棋会館で対局→夕刻大阪発だったという。

写真は新大阪駅らしくはないので、夕刻の福島駅だと思う。

羽生善治九段の「人柄の良さ」「透明感」は、生まれた時から持っているものなのだろう。