二上達也九段「そろそろわが将棋人生にピリオドを打つ時期が迫ってきました」

将棋世界1987年12月号、福本和生さんの「検証・素顔の棋士達 二上達也九段の巻」より。

森の必敗局が…

 昼食はいつものように、ざるそばが用意されていた。伊豆長岡「石亭」の広い座敷の食卓にそばが並べられ、エビや野菜の天ぷらが置かれ、いつでも食べられるようになっていた。休憩時間になって森八段が食事部屋に現れ食卓の中央あたりにすわった。二上棋聖は珍しいことに自室で食事をするという。立会人の松田茂役九段、米長邦雄棋王、観戦記担当の芹沢博文八段らも席につき食事が始まった。森はいかにも重そうに箸をはこんでいた。一口食べては箸を休めて、暗い表情でほんやりと考え込んでいた。箸を置いた森は友人の作詞家、千家和也さんに電話で「早くこないと将棋が終わっちゃうよ」と話していた。午前中で森の”必敗局”となっていた―。

永世棋聖を賭けて

 第40期棋聖戦(1982年)は二上達也棋聖に挑戦者が森雞二八段であった。

 二上は第37期に米長から棋聖位を奪取して、第38期は中原を、第39期は加藤(一)をそれぞれ3連勝で撃破、タイトル戦9連勝で本局に勝つと10連勝の新記録を達成する。さらに今期を防衛すると第8期(1966年)とあわせて通算5期の棋聖位獲得で大山、中原につぐ3人目の永世棋聖の称号を手中にする。50歳の二上は燃えていた。

 将棋は先番森の中飛車から向かい飛車に、二上は居飛車で玉を天守閣玉とした。序盤作戦を森が失敗して<▲6九歩>と指して昼食休憩となった1図では、二上が大優勢であった。控え室では「二上勝ちで、夕食休憩前に終わる」「これでガミさん10連勝か」という声がでていた。

 二上勝ちは結構だが、短手数で終わっては困るとわたしは気をもんでいた。40期を記念して本局の観戦記は芹沢さんに頼んで30回連載になっていた。森の顔色ではすぐにも投了しそうで、そうなったら30回観戦記がどうなるか、という心配もあった。芹沢さんも内心では弱っていただろうが、もちろんそんなことはおくびにもださない。

 そして二上である。これまでの五番勝負で二上はきまって昼食を共にしていた。今回は注文をつけて自室で休んだ。勝ち筋がみえて、それを休憩時間に読み切ろうとしたのか、それとも森の▲6九歩に意表を突かれたのか。芹沢観戦記にはこう描かれている。

「控え室から対局室に入って行った米長を何となく見ていると米長は記録用紙を手に直ぐ出て来る。急ぎ足で戻って来た米長は『森君って面白い頭してんだね。この一手は当たらないよ、皆んな、そこの紙にメモしてみたら?当たったら今日の夜はご馳走しますよ』と悪戯っぽく喋るが眼は真剣であった。みんなはヘエーそんな凄い手があるの?とか云いながらメモ用紙に思い思い記入していた。米長が意外な手だと云っているのであるから、と云うことまで考慮してそれぞれ書いたようである。米長は『ハイ、〆切です、当たりは▲6九歩です』誰一人として当たりなし。こんな手、どんな頭で思いつくのであろうか(中略)どうしてこの手が思いつくのかいろいろ考えてみたが判らぬ。局後、森に問うと『この手が一番長持ちするでしょ』なんと云う発想か」。

 ”なんと云う発想か”の思いは二上も同じだったろう。一気呵成に描こうとする白布にぽつんと黒いしみがついた。盤上の美学派である二上にとって、この小さなしみは気持ちをいらだたせる。

 再び芹沢観戦記を引用させてもらうと「部屋を出て少し歩こうかと思い庭を廻ると、二上が窓際に立ち厳しい表情でいる。フッと目が合い、然りげなく歩を運んだが、悪いことをしてしまった。仲間内は思考の妨げになるようなことはしないのがマナーだからである」と書かれてある。

二上の怒り

 森が敗局に暗然となっていたように、二上も勝勢ゆえのあせりに心が騒いでいた。

 二上が△8九歩成を指したとき、控え室では次の森の指し手がわからなかった。二上から△8八とと引かれると▲同金は△6八飛があり、かといって▲6八金は△8七とで処置なし。目に映るのは▲6五桂だがそれも△6四銀と出られてしまう。森の▲6九歩はと金を引かれたあとの△6八飛を防いでいるのだが、こんな歩を打たされては苦境は歴然たるものがある。控え室が”二上よし”を宣するのも当然であるが、この必勝局を二上は負けてしまった。

「午前中でばかに指しやすい局面になりましてね。これで10連勝達成かと思うと妙に気持ちが落ち着かなくなって、昼休みは胸の昂ぶりを鎮めていました。<▲6九歩>ですか。さして気にはしていませんでした。

 二上は美しく勝つことだけを考えていた。二上ほどの力量をもってすれば、この局面からなら勝ちは目前である。芹沢観戦記のことがちらっと脳裏をよぎった。(短手数で芹ちゃん弱るかな)。再開の時間が迫っているのに気づいて二上はあわてて立ち上がった。

 記録は大野八一雄四段(現五段)。大野は新四段になったばかり。

「対局日が奨励会の対局とぶつかって、わたしが記録を担当することになりました。いい勉強になると思っていましたら午前中で形勢が傾き、二上先生の楽勝と思っていたのが再開後、どうも様子がおかしくなって、大金持ちの二上先生が、浪費につぐ浪費で財産を使い切っていく―。信じられないような局面の動きでした」

 先日、将棋連盟の近くで偶然、大野に会ったとき、この将棋の聞いてみたら”信じられない将棋”と話していた。

 2図は二上が54手目に<△6六飛>と指した局面。

 この一手、二上は58分の大長考である。二上が長考中に控え室ではこんな会話がかわされていた。

「△6五銀と桂を取り▲6一飛に△3二銀打▲6五飛成に△8九とで二上さんの勝ち」である。こうなればプロの初段の力があれば負けようがないという。

 ところが米長棋王は「二上さんは怒っているからこう指さないかもしれない」と予想して、その予想的中の△6六飛である。

「米長の予想は当たり二上△6六飛である。一見、角取りと△6九飛成から△3九銀の寄せをみて鋭い一手のようであるが無筋である。遊び駒の8六角を取りに行くのは無筋である。名手二上にしても怒りの心があると手が正しく動かぬものらしい」(芹沢観戦記から)

 芹沢、米長が口をそろえて”二上の怒り”を指摘する。午後の再開から△6六飛まではわずか12手が指されただけ。時間にして36分間。二上は何をいらだっていたのか―。このあたりから二上の”浪費”が続き局面はもつれぎみになっていく。

美学派の宿命

 勝負の世界に身を置きながら、二上は勝負師に自分は向いていないという。純粋に棋理を探求するのが至上で、勝敗は単なる結果として受けとめるだけ。泥田のなかに身を沈めても、という勝負には顔をそむける。美学派は自分だけでなく相手にも美しさを求め、その思いが崩されたとき、自身もまた崩れていく。

 ライバルと問うた瞬間、二上はちょっと考えていたが「熊谷さん(故熊谷達人八段)ですかね」と答えた。わたしは当然タイトルを争った棋士の名前があがると思っていた。

「四段のころ熊谷さんとよく指しましたが、強いなあと内心で感嘆していました」

 病魔と戦って倒れた晩年の熊谷さんを知っているわたしには、この二上談話は胸がふるえるほどうれしかった。

 局面に目を移そう。指し手が進んで二上が74手目に△3二玉(3図)と指した。

 記録の大野四段が驚きの目をみはり、控え室でも”これは…”と首をひねっていた。意味不明の一手である。

「なぜこんな手(△3二玉)を指したのか。この局面で頭の中にあったのは、何手か前に指した手のことばかりで、いま指さなければならない手はヨンでいない。△6六飛では△6五銀で決まっていたのではないか、といったことばかりを考えていました。すでに正常な心理状態ではなかった」

 米長は「二上さんが優勢だが、この将棋は二上さんが負けますよ」と話していた。二上の異常な内心の揺れを米長は察知していたのだ。

「無念と思う敗局が何局かありますが、この一局もそのなかに入っています。死児の齢を数えるように棋譜を見るたびに胸が痛みますよ」

孤愁

 函館での第2局も敗れ、箱根「天成園」での第3局も失って二上は3連敗であった。美学派のもろさとでもいうのか第2局からの二上将棋は精彩がなかった。

 第3局の天成園では対局場が新館に変わっていた。それまでは本館の1階で対局していたのが、このときから新館の8階になった。新装の部屋でいいと思ったが、これがそうではなかったようだ。

「対局場が変わったと聞いて、今期戦はついてないなあと思いました。以前の対局場では負けしらずでしたからね。もっともこんなことを思うようではダメなんですがね」

 対局上の設営担当としてわたしは反省させられた。カド番の一局、二上は闘志をかきたてていた。げんのいい対局場で死力を尽くす決意であった。それが新しい対局場となった。二上にすればやんぬるかなの思いであっただろう。

「いつのまにか、来し方をしみじみとなつかしむような歳となりました。そろそろわが将棋人生にピリオドを打つ時期が迫ってきました。将棋の駒は40枚ですから、1枚を1年として、棋士生活40年で現役を退こうと思っています。昭和25年に四段になってからですから昭和65年は満40年目。ここで現役引退です。58歳ですが、いい潮時でしょう。あと2年有余、どれだけ自分の将棋が指せるか―。一局一局を全力で闘ってみます」

 思いもよらぬ言葉であった。二上が静かな口調で話している。淡々と、まるで他人のことを語るように。

 ”孤愁”という二文字が頭に浮かんだ。二上が第一線から身を引くという。昭和生まれの棋士の旗手として二上将棋の魅力は贅言を重ねるまでもない。

 芸が円熟期に入ったころには老いの影もそっと忍び込んでいる。哀しいことだが人間の宿命である。

 盤上の美学派である二上にとって、芸のおとろえをみるのは身を切られるよりつらい。その限界を58歳とみたのだろう。

 今期棋聖戦は惜しくも準決勝で敗れてしまったが、わたしの願いでは、二上が挑戦者となって永世棋聖を賭けた五番勝負に登場してもらいたい。

 盤上の40枚の駒が虚空に散って、その最後の1枚の消えるのを見届けて、二上はわが将棋人生の幕を引く。あと2年有余、孤愁の思いのガミさんに悔いのない将棋を指してもらいたい。

 30回の芹沢観戦記でわたしの好きな文章がある。

「対局室に行くと森は序盤なのに真剣な表情になっている。遠くに見えるロープウエイがゆっくり上がり降りしているのを見て二上が『行って帰って来るだけじゃなく山の向こうに行けたらいいだろうにね』と誰にともなく呟く。同じことを思っていたので何となくハッとして年なんだナーと胸中に思う」

 二上が胸中に描いていた”山の向こう”とはどんな所だったのか。

 10年ほど前になるか。二上、芹沢、内藤、わたしの4人で飲んで、何軒目かに赤坂のちょっとした店に入った。にぎやかに騒いで4人が連れ立って店を出ると店員が後を追ってきた。何事かと思ったらガミさんが勘定を払い過ぎて返しにきたという。少々の額ならチップですませられるが、店では受け取りかねる額だったらしい。

 困惑の態の店員に二上は軽く手を振ってさっさと歩いていった。

 芹沢も内藤もしばらくその後ろ姿を見ていた。

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「一気呵成に描こうとする白布にぽつんと黒いしみがついた。盤上の美学派である二上にとって、この小さなしみは気持ちをいらだたせる」

福本和生さんのこの表現が絶妙だ。

大野八一雄四段(当時)の「大金持ちの二上先生が、浪費につぐ浪費で財産を使い切っていく―。信じられないような局面の動きでした」、二上達也九段の「無念と思う敗局が何局かありますが、この一局もそのなかに入っています。死児の齢を数えるように棋譜を見るたびに胸が痛みますよ」も、非常に実感がこもっている。

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「いつのまにか、来し方をしみじみとなつかしむような歳となりました。そろそろわが将棋人生にピリオドを打つ時期が迫ってきました。将棋の駒は40枚ですから、1枚を1年として、棋士生活40年で現役を退こうと思っています。昭和25年に四段になってからですから昭和65年は満40年目。ここで現役引退です。58歳ですが、いい潮時でしょう」

この言葉の通り、二上達也九段は1990年3月31日に引退している。順位戦はB級1組で残留も決めていた。弟子の羽生善治竜王(当時)がC級1組からB級2組への昇級を決めたタイミングでもあった。

「弟子が師匠に勝つことが恩返しになるとは限らない」

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「対局室に行くと森は序盤なのに真剣な表情になっている。遠くに見えるロープウエイがゆっくり上がり降りしているのを見て二上が『行って帰って来るだけじゃなく山の向こうに行けたらいいだろうにね』と誰にともなく呟く。同じことを思っていたので何となくハッとして年なんだナーと胸中に思う」

同じようなことを、空港内を走るランプバス(旅客ターミナルと離れた場所に駐機した航空機との間を輸送するバス)を見て、思う。

空港内だけではなく、もっと遠くまで走って行きたいだろうな、と思う。

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「二上、芹沢、内藤、わたしの4人で飲んで、何軒目かに赤坂のちょっとした店に入った。にぎやかに騒いで4人が連れ立って店を出ると店員が後を追ってきた。何事かと思ったらガミさんが勘定を払い過ぎて返しにきたという。少々の額ならチップですませられるが、店では受け取りかねる額だったらしい。困惑の態の店員に二上は軽く手を振ってさっさと歩いていった。芹沢も内藤もしばらくその後ろ姿を見ていた」

これは、二上九段が4人分の勘定を持って、なおかつ店の複数の女性にはチップを渡して、そのうえでの話。

二上達也八段(当時)のチップ

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第40期棋聖戦(1982年)五番勝負第1局については、次の記事に詳しい。

森雞二ワールド

森雞二八段(当時)の▲6九歩

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1990年1月25日、第2期竜王就位式にて。二上達也九段と羽生善治竜王(当時)。将棋マガジン1990年4月号、撮影は弦巻勝さん。

桐山清澄棋聖(当時)「スーパーマリオブラザーズは8-4まで全部いけますよ。すごい?だれでも練習すれば、これくらい簡単にいけますよ」

将棋世界1987年4月号、池崎和記さんの「自分主義からの出発 桐山棋聖のすべて」より。

 人間・桐山についてなら、わたしが昔から思い描いているイメージがある。

 外柔内剛。
 含羞の人。

わたしのなかにある桐山像は、煎じ詰めれば、この二点に凝縮される。これに

 マロンケーキの好きな人。

 という一項が加われば、人間・桐山のほぼ半分は理解したことになると、わたしは勝手にそう思うことにしている。

 棋士として、人間として。そのありのままの姿を引き出そうというのが、今回のテーマだ。以下は、桐山棋聖がわたしのインタビューに答えてくれたものに、別個に取材したものを加味して構成した。

(中略)

 桐山棋聖の私生活は、これまであまり公表されていない。今回の取材のために、古い将棋雑誌を片っ端からめくってみたが、ほんの少し断片的に載っているだけで、ほとんど収穫がなかった。別に本人が隠していたわけではなく、その部分にスポットライトを当てる人がいなかっただけなのだろう。

(中略)

 ここに桐山棋聖の最新パーソナルデータを一挙に公開する。棋聖は記者の珍問・愚問にも嫌な顔ひとつせず、その素顔をあっさり明かしてくれた。本邦初公開のものも多いはずだ。

競馬

 桐山棋聖は棋界でも有数の競馬ファンだ。20歳のころに競馬を覚え、20代は毎週のように競馬場へ通っていた。現在は多忙のためあまり行くなくなったが、馬券はいまも電話投票で毎週買っている。数年前、スポーツ紙で競馬予想を担当していたことがある。

「10数年前、タマホープという馬がいました。名馬ではなかったのですが、この馬に魅せられたのが競馬ファンになったきっかけです。馬券を連勝で取ったから余計に愛着を感じたのかもしれませんが。いまは特別好きな馬はありません。好きな馬はみんな引退しちゃった」(笑)

 大穴は、7千数百円が過去最高。いつか万馬券を取りたいという夢を持っているが「ぼくは穴狙いしゃなく、どちらかというと本命党なので、確率は薄いですね」

映画

 これも大のつくファン。むしろ競馬異常といっていいだろう。棋聖は洋画の大作といわれるものは、ほとんど見ている。古いものではベンハー、十戒、エルシド、ナバロンの要塞など。とくに面白かったのは、大脱走、ジャッカルの日、十二人の怒れる男。

「最近では、地獄の七人、ハスラー2が印象に残っています。トップガンも見ましたが、これは全然ダメ(笑)。最近のものは、見てもしょうもないものがありますね」

 以上でおわかりのように、棋聖は勇壮な男たちが主人公の映画(洋画オンリー)をとくの好む。ラブロマンス物はあまり見ないようだ。

テレビ

 映画が好きだから、当然「洋画劇場」。ほかにNHKの「クローズアップ」、YTVの「知られざる世界」など。

「以前、十月のミサイルという映画をテレビでみたんですが、これが抜群に面白かった。見ませんでしたか?」

 棋聖に用事のある人は、事前に新聞のテレビ欄を読んでおいた方がよさそうだ。

マージャン

 棋士の例にもれず、これも好きだ。マージャン仲間は、小林健八段、伊達七段、小阪五段など。メンバーが4人いても、3人マージャンしかない。

 関西には「桐山リーチ」というマージャン用語があって、いわゆる筋待ちリーチ(ひっかけ、などという下品な言葉は使いません)のことを、こういう。

読書

 ひところ、司馬遼太郎の歴史小説ばかり読んでいた。いまはノンフィクション物をいろいろと。最近、読んだのは「鷲の翼に乗って」

 古い将棋雑誌を読んでいたら「好きな女性のタイプは司馬遼太郎の小説に出てくる山内一豊の妻女」という一文に出くわした(昭和49年の近代将棋12月号)。一子(かずこ)夫人は、きっとこんなタイプの奥様なのでしょうね。

桐山ファミリー

 昭和53年、八段のときに一子夫人と結婚。長男(7歳)と長女(4歳)がいる。

 今回の取材中、某所で「桐山先生は結婚されてから棋風が変わったんじゃないか」という話を聞いた。本当だろうか。

「そういうことは、まったくありませんよ」(笑)と棋聖。

 同じく「桐山先生は結婚されてから性格が明るくなったみたい」という説はどうか。

「そんなこと、本人に聞いてもわかりませんよ」(笑)と棋聖。

スポーツ

 現在やっているのはゴルフだけ。関西棋士のゴルフ同好会「枝豆会」のメンバー。連盟ハンデは25~26。

「以前は野球とボウリングをよくやってました。ぼくは連盟野球部(関西には若手中心のシルバーズというチームがある)のOBなんですよ(笑)。ボウリングはブームのころ、森安君(秀光八段)や滝君(誠一郎六段)と一緒にずいぶんやりました。アベレージは170くらい。いまはほとんど機会がありません。子供がまだ小さいですから」

アルコール

 現在は、まったくダメ。20代半ばに薄い水割りを5杯飲んだのが自己最高。

「酒をやめたというのではなく、もともと弱いので飲めなくなったんです」

カラオケ

 酒が飲めないから、行かない。前出の「水割り5杯時代」には、東京ナイトクラブ、柳ケ瀬ブルースなどを歌っていたらしい(当時の歌唱力については森安八段や滝六段に聞かないとわからない)。

ファミコン

 1、2年前、長男のT君がファミコンをやっていたときに、棋聖も熱中。

「いまは子供の熱がさめて、ファミコンはやってないので、ぼくもやってません。マリオは8-4まで全部いけますよ。すごい?だれでも練習すれば、これくらい簡単にいけますよ」

桐山棋聖の一日(対局のない日)

 朝8~9時に起床。朝食がすむと、原稿を書いたり、詰将棋や次の一手を創作したり。忙しくないときは、映画を見に行く。就寝は夜11時ごろ。

「食事は1日3回、ちゃんと食べています。独身時代は徹夜したりして、とても不規則な生活を送っていましたが、いまはごく普通の生活ですよ」

好きな食べ物

 好き嫌いはあまりない。魚と肉では、どちらかといえば肉(とくにステーキ)が好き。

 対局のおやつの時間には、必ずマロンケーキを注文する。

「典型的な甘党ですね。なぜマロンケーキですかって?もちろん、おいしいからですよ。栗は、わりと好きなんです」

好きな飲み物

 ホットコーヒーとミネラルウォーター。とくに対局中のミネラルウォーターは必需品だ。必ず5本飲む。

「ミネラルウォーターを飲み始めたのは7、8年前から。森さん(雞二九段)の影響です。1日5本というのは、一局が終わるのにちょうどいい分量なんです。生水(水道の水)はあまり飲みません。お茶は好きですが。

(以下略)

将棋世界同じ号グラビアより。撮影は池崎和記さん。

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桐山清澄九段らしさ溢れる、ほのぼのとしたインタビュー。

桐山九段の日常まで踏み込んだ記事は少なく、非常に貴重なインタビューだ。

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マロンケーキとモンブランの違いが気になったので調べてみると、非常に乱暴に言えば、モンブランはマロンペーストが山の形をしたマロンケーキ、つまりモンブランがマロンケーキの部分集合になるということが確認できた。

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「ベンハー、十戒、エルシド、ナバロンの要塞など。とくに面白かったのは、大脱走、ジャッカルの日、十二人の怒れる男」

1950年代から1970年代初頭にかけてのハリウッド大作映画が多い。桐山九段が10代から20代前半にかけて観た映画が中心。

石原裕次郎、小林旭、勝新太、三船敏郎、中村錦之介、高倉健、鶴田浩二などが主演する同時期の邦画ではなく、洋画が主体というところが桐山流だと言える。

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「スーパーマリオブラザーズ」は1985年に任天堂から発売されたファミコンソフト。

ワールド1からワールド8まであって、それぞれのワールドに4つのステージがある。8-4は最終ステージで32ステージ目。

スーパーマリオブラザーズは、電源を切らなければAボタンを押しながらスタートを押すと、ゲームオーバー前にいたワールドの1から再開することができるが、電源を切ってしまうと(セーブ機能がなく)1-1から始めなければならなかった。

そういうわけなので、普通ならファミコンの電源を1週間以上切らずに付けっぱなしにしておかないと8-4までのクリアは難しい。

桐山棋聖(当時)の「マリオは8-4まで全部いけますよ。すごい?だれでも練習すれば、これくらい簡単にいけますよ」は、ゲームオーバーに一度もならずに、通しで1-1から8-4までを一気にクリアできたということだろう。

こんなお父さんは滅多にいないはずだ。

「鳴りもの入り達」と紹介された奨励会員たち

将棋世界1989年3月号、駒野茂さんの「関東奨励会レポート」より。

鳴りもの入り達の紹介

 アマ棋界で輝かしい棋歴を持ち、そして奨励会に入ってくる若者が増えてきた。そこで、彼らのことを紹介したい。

小川浩一初段(1981年中学生名人・中学生選抜戦優勝、21歳)

 これ程素晴らしい棋歴の持ち主はいない。それに、将棋祭りでは無敵を誇っていた程だ。現状はどうか。どうも低迷気味である。生活パターンを変えて、復調してもらいたいものだ。入会当初、手には棒銀アラカルトの本を持ち、襟を正していた姿がなつかしい。

勝又清和初段(1983年中学生名人、19歳)

 初段までは順調であったが、ここでピタリと止まってしまった。早指しで、奇麗な将棋であるが、上に行くためには、ここで一工夫が必要と思う。

川上猛2級(1986年中学生名人、16歳)

 とにかく口数が少なく、おとなしい若者である。それが災いしてか、伸び悩んでいた。しかし、最近では盤上に荒々しさをみせ、闘志満々である。伸びが期待される。

立脇敬一5級(1987年中学生名人、15歳)

 昨年入会したばかりで、分からないことが多い。しかし、新入会の中では抜けている存在だ。

瀬川晶司1級(1984年中学選抜戦優勝、18歳)

 もの静かな男だ。成績も牛歩のあゆみという感じ。大崩れもなく、大勝ちもしないタイプであるが、このところ好調だ。ガンバッてほしい。

鹿島寛4級(1985年中学選抜戦優勝、17歳)

 爆発的な瞬発力が必要。年齢的なこともあるので、ここらで一つ奮起してほしい。

斎田純一初段(1983年小学生名人、17歳)

 とにかくいつも連盟にいる。不思議に思う程。これだけ真面目?に将棋に接することは、いいことだ。今後もこの姿勢が良いと思う。

窪田義行初段(1984年小学生名人、16歳)

 考え方に独特なものがあり、それが彼の個性でもある。一時ファミコンに凝り、その影響もあってか2番連続降段の一番を迎えてしまったが、気を取り直して何とかそれをこらえた。遊びも程々に。

将棋マガジン1984年6月号グラビア。撮影は弦巻勝さん。

野月浩貴3級(1985年小学生名人、15歳)

 一時期5級→6級へ逆噴射してしまったこともあったが、最近はまあまあである。ここらで止まっている男ではないと思うが。

将棋マガジン1985年6月号グラビアより。撮影は中野英伴さん。

鈴木大介初段(1986年小学生名人、14歳)

 好青年である。そして、大器でもある。これからの注目株だ。

将棋マガジン1986年6月号グラビアより。

田村康介4級(1987年小学生名人、12歳)

 落ち着きのない少年だ。その影響もあって、勢いはいいが、見落としも多い。落ち着くことが、好成績につながるであろう。

将棋世界1987年6月号グラビアより。撮影は中野英伴さん。

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中学生名人、中学選抜戦優勝者は記事が載っていないことが多く、写真を見つけることができたのは小学生名人だけだったが、このように写真が並ぶと、とても感慨深い気持ちになってくる。

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例えば丸山忠久三段(当時)は1984年の中学生名人だが、ここで紹介はされていないので、初段以下の奨励会員を紹介の対象としたのだろう。

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鈴木大介初段(当時)の「好青年である。そして、大器でもある」という評が、現在の鈴木大介九段そのままという感じがする。

窪田義行初段(当時)と田村康介4級(当時)の評は、思わず笑みがこぼれてしまいそうになる。

カニカニ銀夫人

将棋世界1989年3月号、池崎和記さんの「棋士の女房・お袋さん 児玉佳津子さん(児玉孝一六段夫人)」より。

カニカニ銀夫人、登場

 児玉孝一六段は、私がもっとも敬愛するプロ棋士の一人である。

 居玉のまま、二枚銀を前線に繰り出してガンガン攻める「カニカニ銀戦法」は、この人が創案したものだ。私もずいぶん宣伝させてもらった。

 いわゆる”負けない将棋”が大流行りの現将棋界にあって、児玉六段の存在は貴重である。塚田スペシャルが攻め100%なら、カニカニ銀は200%の激しさがある。児玉六段の勇猛果敢なチャレンジ精神は、もっと称えられていいと思う。

 カニカニ銀には旧型と新型があり、前者は7八金-6九玉-5八金の形から二枚銀が出て行く。この戦型は古くからあって他の棋士も指しているが、後者は完全居玉で、児玉六段の専売特許。そして、これこそが真正「カニカニ銀」なのだ。

 新型は、2年前に公式戦デビュー。約20局の実戦例があるが、もっともっと実戦例を増やしてもらい、早く単行本を出版していただきたいものだ。

 昨年、アマ名人戦の大阪大会を観戦していたら、突然、カニカニ銀が出現して、私を驚かせた。カニカニ銀の完勝。相手の人はこの珍戦法を知らなかったらしく、最後まで頭を抱え込んでいた。

 感想戦で面白い場面があった。その将棋を見ていた別の選手が、負けた人にこう言ったのである。

「あんた、カニカニ銀も知らんと、矢倉を指してるんか」

 思わず「バンザイ」と叫びたくなった。プロ棋士でカニカニ銀を指しているのは児玉六段ただ一人だが、アマ間では結構浸透していることが、これでわかった。宣伝した甲斐があったというものだ。

 というわけで、今月は”カニカニ銀夫人”の登場である。

破れたハンカチ

 昭和58年8月、大阪・上本町の近鉄百貨店。将棋まつりが行われていた。

 その会場で佳津子さんは児玉六段(当時は五段)と初めて会った。二人を引き合わせたのは女流ブロの森安多恵子さんだ。

 佳津子さんは将棋ファンで、そのころ関西本部の女性将棋教室に通っていた。教室の講師が森安さんだった。世話好きの森安さんが「一度、児玉さんと会ってみない?」と声をかけたのである。

 その日、3人で近くの喫茶店に入った。六段は、とても緊張している風だった。「カチンカチンになってるような感じでしたね」と佳津子さんは笑う。

 無理もなかったのだ。カニカニ先生が女性向かい合って話をするのは、このときが初めてだったからだ。その”カチンカチン”を見て「誠実そうな人だな」と佳津子さんは思った。これが第一印象。

 喫茶店ではほとんど話をしなかった。森安さんが一人でしゃべっていた。紹介も済み、いくらか緊張が解けたところで、森安さんが気をきかした。「これから二人で、どっかへ行ったら?」

 映画館へ行った。ようやく二人きりになれた。「南極物語」をやっていた。ところが場内は超満員で、座る場所もなければ立ち見の場所もない。映画は見ないで、外へ出た。光がまぶしかった。

 大阪城公園へ散歩に行った。2時間くらい一緒に歩いたろうか。そのとき何を話したか、佳津子さんはほとんど覚えていない。でも一つだけ、忘れられない思い出がある。

 歩き疲れた住津子さんが、石段に座ろうとしたときだ。六段がポケットからハンカチを取り出した。さっと石段の上に敷いた。まるで、昔の日活青春映画の一シーンを見ているようだ。

 児玉六段「石段が汚れていたし、キレイなスカートをはいていたからね。こういうことするの、常識でしょ」

 デート初体験というのに、カニカニ先生は、恋のテクニックだけはバッチリ身につけていたわけだ。佳津子さんは嬉しかった。そして腰掛けようとして、下を見た。思わず吹き出してしまった。

「ハンカチを敷いてくれたのはいいんだけど、破れていたんです」

 真ん中に大きな穴が開いていた。日活青春映画が吉本新喜劇みたいになったが、「優しい人だな。真面目そうな人だな」と、佳津子さんは好印象をもった。

異様な部屋

 佳津子さんが六段のマンションに連れて行ってもらったのは、それから3ヵ月後のこと。それまで月2回のペースでデートをしていたから、そのころは、かなり親しくなっていた。

 JR天満駅の近くにマンションはあった。部屋に入った。ものすごいタバコのニオイに、ムッとした。部屋を見た。佳津子さんは「あっ」と叫びそうになった。異様な部屋であった。

 カベ沿いに、カンビールが40本くらいズラーッと並んでいる。反対側には、ティッシュペーパーの箱が約10個。よく見ると、それは全部、空箱だった。

 それから、電気製品がまったくないのに気付いた。テレビがない。冷蔵庫がない、何もなかった。唯一の電気製品と言えば天井から下がっている電灯だけだ。

 炊事道具は……あるはずがなかった。いや正確に言うとヤカンが1個、急須が1個、湯呑みが1個あった。これだけ。

「前に森さん(信雄五段)から、”あの部屋はすごいよ”って聞いてはいたんです。棋士間では結構、有名だったらしいですね。でも、私は……本当にビックリしてしまいました」

 ”異様な部屋”の秘密はこうだ。

 児玉六段「あのころは毎日、外で飲んだあと自動販売機でカンビールを買って家でも飲んでた。寝酒用ね。家で飲むのはだいたい1、2本だけど、足りなくなったら困ると思って、いつも2、3本買って帰ってたわけです」

 でも全部は飲めないから、飲まないビールがだんだん溜まる。生ぬるいビールは飲めない。冷蔵庫がないから冷やせない。かくして溜まる一方というわけだ。

 ティッシュペーパーの空箱は?

「箱がキレイでしょ。捨てるのもったいないから、小物入れに使ってたんです」

 一つ一つ聞いていくと、それなりにちゃんとした理由がある。テレビはキライだから見ない。外食していたから冷蔵庫は要らない。一人で生活しているのだから、湯呑みは一個でいい……。

児玉家のアマプロ戦

 その部屋で、佳津子さんは六段と初めて将棋を指した。初段の免状をもっていたが、女性将棋教室では”二段の実力がある”と言われていた。

 二枚落ちだった。佳津子さんの作戦は二歩突っ切りで、玉はカニ囲い。そのころから「カニ」とは縁があったのだ。

 佳津子さんは負けた。完璧な序盤だったのに、終盤でおかしくしてしまった。

 終わって六段は、ドッと疲れが出た。というのも、佳津子さんが加藤一二三九段顔負けの大長考派だったからだ。

 上手「一局に3時間かかったんです。終盤なんか、1手1時間という大長考があって、さすがにウンザリしましてね。もう二度と指すまいと思った」

 独身時代に二人が将棋を指したのは、この二枚落ちだけ。しかし、負けて悔しい思いをした佳津子さんは、結婚してから再挑戦する。嫌がる夫に、今度は何と、平手対局を申し込んだのである。

 佳津子さんは居飛車の急戦派。激しいのが好きなのだ。さすがにカニカニ夫人だけのことはある。佳津子さんは研究熱心で、そのころ山田定跡(四間飛車破り)を勉強していた。詰みまで研究していたというから、ハンパじゃない。で、研究の成果を試してみようと思ったのだ。

 妻が局面指定をして、夫は四間飛車。佳津子さんは、▲2六銀の棒銀で、ここから敢然と▲3五歩と仕掛けたのである。

 このときも長考して時間がかかったが、前回ほどではなく、約2時間で済んだ。そして結果は―佳津子さんの快勝。プ口六段が妻に平手で負けた!

 優しい夫がわざと手を緩めたのか。ノー。早く終わらせようとして、いいかげんに指した結果か。これもノー。プロは本気で指して負かされたのだという。

プロ「鮮やかな寄せで、僕のほうは手のほどこしようがなかった。気がついたら、玉が詰んでいたんです」

アマ「あのときの投了の局面を写真に撮っておけば良かったと、私はいま後悔しているんです」

 その日から夫妻は将棋を指していない。今後、指す予定もない。児玉家のアマプロ・オープントーナメント戦は、1回ぽっきりで幕を閉じたのだった。

アナグマ夫人

 佳津子さんが六段から結婚の申込みを受けたのは、知り合ってから5ヵ月後のこと。プロポーズの言葉は「一緒になりませんか」だったという。

 すんなり決まった。周囲の反対はなかった。それから半年後に結婚した。

「型にはまった生活というのは、私はあまり好きじゃない。棋士との結婚も、緊張感があっていいんじゃないかと思いました」

 新生活が始まり、佳津子さんは六段に二つの要望を出した。「タバコをやめること。マージャンをやめること」。

素直な夫だった。タバコは何度か挑戦して、失敗もあったが、現在は吸っていない。

 ただ六段によると「禁煙ではなく、休煙です」。マージャンは、独身時代はほとんど毎日やっていたが、現在は月2回に減っている。

佳津子さんにとって、夫は非常にいいダンナさんだ。真面目だし、優しいし。独身時代はヤカンで湯をわかすことしかできなかったのに、結婚してからは子供(長男、2歳)の面倒も見てくれる。苦労は何もない。

 そして、ケンカしたら100%、妻が勝つ。夫は黙り込んでしまい、まったく抵抗しないからだ。勝つのは快感だが、張り合いがないな、と妻は思う。

「周りでは私が悪い、と思われてるのと違いますか。私は、いじめたくなるタイプだから」(笑)。

 カニカニ先生は、逆にいじめられやすいタイプなんだそうだ。ひょっとすると、カニカニ銀創案の秘密は、このあたりにあるのかも知れない。

 家計管理は佳津子さんの仕事だ。

「この人は、明日のことを全然考えていない。ほっといたら、全部使ってしまうタイプなんですから」

 九州の六段のお母さんからも”手綱を締めて下さいね”と言われているそうだ。

「とは言っても、使い込みをされたことはあります(笑)。預けていたお金が、いつのまにかなくなっていたんです」

 カニカニ夫人は、実生活では”アナグマ夫人”なのである。実に手堅い。

「老後をリッチに送りたいから、いま計画を練ってるところです。相談しても無理だから、私が勝手に設計をたててる。私、ギリギリの生活は、経験がないんです。激しいのは将棋だけでして……」

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は池崎和記さん。

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児玉孝一六段(当時)の独身時代の部屋の様子がエキセントリックだ。

ある意味では非常に合理的な指向と言えるだろう。

ヤカンが1個、急須が1個、湯呑みが1個あるのが、逆に奇跡に思えてくる。

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「カニカニ銀」の命名者は森信雄七段。

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森信雄七段、児玉孝一八段、伊藤博文七段は、非定期的に集まって、鶴橋で麻雀→焼き肉→甘党喫茶というコースを巡っている。

鶴橋に行く1.30(森信雄の写真あれこれ)

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関西の棋士のこのような記事は、池崎和記さんの右に出る者なし。

池崎さんは2009年に58歳で亡くなられているが、本当に惜しいと思う。

 

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