将棋世界1990年7月号、井口昭夫さんの「名人の譜 大山康晴」より。
2年前のある大山講演会で、聴衆の一人が「名人はA級を落ちれば引退するのでしょうか」と質問した。大山は笑って「今は何とも言えません。落ちたら相談に行きます」と答え、満場がわいた。
当時はまだ余裕があったが、今期は切実だった。”落ちれば引退”のざわめきが大山の耳に感じられた。いや、NHKの衛星放送では、ズバリそのことを聞かれた。
今回の企画を機に、心境をたずねてみた。
「昨年11月、塚田さんに負けて1勝4敗になり、残る相手から見て2勝2敗がいいところ。3勝6敗では危ないなと思った。陥落となれば親しい人や、お世話になった人に相談するつもりだったが、最終的には引退と決めていた。ただ、その日に引退ということじゃなくて、私の誕生日が3月13日、そして大阪の木見先生に入門したのが昭和10年3月14日だから、そのあたりがキリかなと思った。それが塚田戦直後の心境です。最終の対桐山戦では何日も前からどういう気持ちで臨んだら一番いいだろうかと考え、心の整理をした。そして、落ちると思うと萎縮する、それならBクラスにいると仮定して、勝てばA級に上がれるんだと思うほうが気楽にやれると、結論を出した」
物は考えようである。大山の精神統一術は見事に成功し、逆に桐山は萎縮して本来の将棋を指すことができなかった。
大山の残留が決まった瞬間、大盤解説場から大きな拍手が起こったという。若い人に活躍が目覚ましい昨今だが、大山は衰えない人気を持っている。
余談だが、今年4月、名人戦第2局の取材で愛知県蒲郡からタクシーで西浦温泉へ向かった時のことである。その運転手さんは話好きで、実は俳句に凝っているのだが、先日、大山名人をお乗せしたとき、その話をすると非常に感心されまして、息子に色紙を送っていただきましたと言う。
いつか、全国に大山色紙は何枚くらいあるでしょうか、とたずねたことがある。すると「さあ、10万枚くらい書いたかな。しかし、実際はそんなに残っていませんよ」という答えが返ってきた。
九州での対局のとき、随分、名付け親になっているのを聞いて驚いたことがある。その時、名付けた子供が両親と会いに来たので分かったのである。
「いまは対局料や賞金がよくなったせいもあって、勝てばいいという風潮がある。私が若い人に言いたいのは、どの社会でもそうだが、その世界の歴史、流れを勉強し、諸先輩がどの時代にどのようなことをしたか、どういう苦労をしたかを考えながら行動することが大切だということです。自分が勝つことより将棋界のことを考えなければいけない。いま、社会的なニュースとして将棋を取り上げてもらうことが少なくなっている。話題を提供するような内容の将棋と、棋士の人間的なあり方がしっかりしていないと、将棋界は維持できないし、社会から取り残され、衰退してしまう」
大先輩として大山は言う。会長時代も降りた今も、全国を飛び回って、将棋を人々の中にとけこませようと努力している。大山ならではの言葉である。
(以下略)
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「落ちると思うと萎縮する、それならBクラスにいると仮定して、勝てばA級に上がれるんだと思うほうが気楽にやれると、結論を出した」
たしかに、このように考えることができれば、気が楽になりそうだ。ただ、その場になって、実際に心の底からそのように思うことができるかどうかはまた別物。
大山康晴十五世名人だから、できたことなのだと思う。
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「大山の残留が決まった瞬間、大盤解説場から大きな拍手が起こったという」
映画『ロッキー』の、ロッキーが15ラウンド戦い終わった時に流れる曲『The Final Bell』がピッタリな光景と言えるだろう。
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「話題を提供するような内容の将棋と、棋士の人間的なあり方がしっかりしていないと、将棋界は維持できないし、社会から取り残され、衰退してしまう」
つい最近も書いたが、羽生善治九段をはじめとする棋士たちの、将棋に対する真摯な取り組みの積み重ねが、現在の将棋界の発展の大きな原動力。大山十五世名人のこの考え方はしっかりと受け継がれている。