羽生善治竜王(当時)「ショックが、全身を駆け巡る気がしました」

将棋世界1990年10月号、羽生善治竜王(当時)の連載自戦記「構想力の差」〔B級2組順位戦 対 吉田利勝七段〕より。

近代将棋1990年8月号グラビアより。撮影は弦巻勝さん。

 月に1局のペースで進めて行く順位戦。明け番などもあるので、月に2局の場合もあります。

 本局もその珍しい月で、前局の3週間後に行われました。

 前局で敗れているだけに連敗は何としても避けたい所です。

 さて、その対戦相手は吉田利勝七段です。吉田七段は相掛かりや空中戦を得意戦法にしており、プロの間では”吉田スペシャル”と呼ばれて恐れられています。

(中略)

 まずA図(…省略)を見てください。

 千日手が成立した局面です。

 私は金得なので優勢と思っていたのですが、打開するとその有利が消えてしまうと思って、千日手にしました。

 消費時間の関係で指し直し局の残り時間は吉田七段は3時間9分、私が1時間ということになりました。

 持ち時間に差があるので、序盤は飛ばして行こうと思っていました。

 指し直し局が始まるまで30分の休憩があるので、色々と展開を考えていたのでした。

 そして、指し直し局、やはり予想通り空中戦になりました。

 1図までは始まる前に予想が出来たのです。

 ところが、この局面で思いもよらない一手を指されたのです。

 私には100年考えても思い浮かばない着想です。

 さて、その一手とは?

1図以下の指し手
△8六歩(2図…省略

 最初は何をやろうとしているのか解りませんでした。

 少しして、▲同歩△同飛▲8七歩△2五歩の狙いかと思いました。

 また少しして、それは▲8六歩△2六歩の後、▲3三角成△同桂▲2三歩以下つぶれていることに気がつきました。

 そして、ようやく▲同歩△同飛▲8七歩△8四飛としてわざと一手損をするのが真の狙いだということに気がつきました。

 ゆっくりとした展開ならともかく、この激しい空中戦で、しかも一手の価値が高い序盤早々にわざと一手パスする着想に驚いたのです。

 そして、指されてみて自分の指す手が難しいので、二度ビックリ。

 吉田七段には他の人に思いつかない特異な感覚があるようです。

 この場合もその一例で、早くも本領発揮という感じです。

(中略)

 こういう将棋はどちらかというと手将棋になり易く。その人の構想力が問われるようです。

 手将棋というのは暗闇の中で手探りをしているようなもので、仲々正解が見つけにくいのです。

 私は確固たる自信を持って指し手を進めていたのではなく、何となく感じで指していました。

 それでもそんなに悪手もなく進めていたと思います。

 ところが、3図でひどい一手を指してしまいます。

 ▲7七桂がその一手で、この手が何故悪手かというと、先手の角は後手の駒組みを牽制しているのに、それを自ら止めてしまったのです。

 こんな手を指すぐらいなら、一手パスした方が、ずっと良かったでしょう。

 構想力がありませんでした。

(中略)

 ▲7七桂の狙いは、持久戦にしてお互いの玉を固め合うような将棋にすれば一歩得が生きるというものだったのですが、何手かけても先手玉は固くならないということまでは対局中は気がつきませんでした。

 玉を固めるよりバランスの良い陣形を作る方が良いのです。

 私の布陣より吉田七段の布陣の方が良いのです。

 見事に構想力の差が出てしまいました。そして、構想の場面でなく、戦いの場面でもひどい手を指してしまいました。

 ともかく▲5六歩(4図)では▲8六歩と戦わなければなりませんでした。

 以下、△9五歩▲8五歩△9六歩▲7九角△9四金▲9六飛の展開が予想されますが、難しい勝負です。

 ▲5六歩の悪手の結果は次譜で見ていただきますが、先程はパスした方が良い手、今回はパスに等しい手という感じです。

4図以下の指し手
△7四歩▲同歩△9五歩▲同歩△7四金▲3九玉△2一飛(5図)

 ▲5六歩というのは何かの時に▲7九角が先手になる(次に▲4五歩)ので損のない手と思ったのですが、本譜のように進められてみると、飛、角が窮屈ということに気がつきました。

 そして、しばらく考えると、もしかしたら受けがないのではと思いました。

 時すでに遅し。

 もうどうすることも、できないのです。

 先手玉が2八ならば強い戦いができるのですが、一手遅い為にそうはできないのです。

 入城をしっかりしていないと流れ弾に当たり易いのです。

 局面は悪くなって来る、時間もなくなって来るという最悪のパターンになってしまいました。

5図以下の指し手
▲7二歩△7三桂▲7九角△9八歩▲同香△7五歩▲9六飛△8四金(6図)

 ▲7二歩とは何とも辛い一手で、△7一飛を防ぐだけの意味しかありません。

 そして、△9八歩が決め手です。

 この手の意味は6図になってみると解ります。

 この打ち捨てによって▲9八飛を消していて、6図では飛車が死んでしまっています。

 まさに次の一手に出て来そうな感じ。

 そして、この局面で敗戦を覚悟し、どうしてこんな場面になってしまったのだろうと、後悔の気持ちでいっぱいでした。

 順位戦での2敗目というのは特別な意味があって、(昇級が絶望的になる)何とも情けない気分です。

 駄目だと思っていても一縷の望みを託してつい指してしまう、それが順位戦なのです。

(中略)

 吉田七段はあまりにも形勢が良すぎるので楽観してしまったのでしょう。

 △7六歩に▲7五香の反撃ができて、悪いながらも攻め合いの形になりました。

 しかし、この程度では形勢が変わるわけはなく、局面は終盤になりました。

 そして7図、△2五桂では△1六桂▲同香△1九銀▲同玉△3八飛成で先手玉は必至がかかり、後手玉には詰みがない。

 つまり、私の負けということなのですが、実際の指し手は△2五桂。

 懐を広げつつ攻めるという一石二鳥の手ですが、この手なら勝負になると思い、思わず座り直してしまいました。

 形勢は微差になり逆転のチャンスも生まれて来ました。

7図以下の指し手
▲5一と△4二玉▲4五桂△同銀▲同歩△7九飛成(8図)

 残り13分という少ない残り時間から貴重な10分を投入して、▲5一と~▲4五桂、必死の勝負手です。

 他の手では簡単に負けなので、これしかないという確信を持っての着手でした。

 △同銀▲同歩△7九飛成は予想された手順。

 そして、この8図、▲3五角か▲6三とかで迷いました。

 残り時間が3分しか有りませんので、とても読み切れるものではありません。

 こういった所は勘で指すしかありません。

8図以下の指し手
▲6三と△1七銀▲同香△同桂成▲同玉△2五桂▲1六玉△1五香▲同玉△1四歩▲1六玉△1五香▲2六玉△3四桂▲3五玉△1三角(投了図)

 ▲6三とに△1六桂▲同香△1七銀なら▲1九玉で、打ち歩詰めで詰まないので勝ち。

 この変化が勝ちならば他の変化でも勝ちだろう、と思って▲6三とを選びました。

 吉田七段の22分の考慮中に気がつきました。

 △1七銀以下私の玉が詰んでしまうことに。

 吉田七段が駒台の銀を持った時に、私は負けたと思いました。

 その数分後に私は投了しました。

 順位戦での連敗は初めて。

 ショックが、全身を駆け巡る気がしました。

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初めてタイトルを獲得した後、その棋士は調子を崩すケースが多い。

さすがの羽生善治竜王(当時)も、3月に全日本プロトーナメント決勝で谷川浩司名人(当時)に2勝1敗で勝ったものの、年度の出だしで4連敗することになる。本局は3連敗目の対局。

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「私には100年考えても思い浮かばない着想です」

手渡しをして相手を窮地に陥れることも得意とする羽生善治竜王(当時)がこのように驚くのだから、吉田利勝七段(当時)の構想がいかに凄かったということがわかる。

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「順位戦での2敗目というのは特別な意味があって、(昇級が絶望的になる)何とも情けない気分です」

この期は羽生竜王がB級2組に昇級して1年目だったので順位は下位、2敗で絶望的になるという見通しは間違ってはいなかった。

年度が終わっての結果は次の通りだった。

森安秀光九段(順位1位)8勝2敗→昇級
島朗七段(順位6位)8勝2敗→昇級
児玉孝一六段(順位13位)8勝2敗
羽生善治竜王(順位21位)8勝2敗

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翌年、羽生竜王(順位3位)は8勝2敗の1位でB級1組に昇級している。

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「駄目だと思っていても一縷の望みを託してつい指してしまう、それが順位戦なのです」

順位戦の厳しさが生々しく伝わってくる。

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「順位戦での連敗は初めて。ショックが、全身を駆け巡る気がしました」

羽生九段も、何から何まで順風満帆というわけではなかった。

このようなことを踏みしめてきたからこそ、後の飛躍につながったのだと思う。