有吉道夫八段(当時)「大山先生には名人位をずっとつづけていただきたい。自分は神社の狛犬です。攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけます」

将棋世界1991年1月号、井口昭夫さんの「名人の譜 大山康晴」より。

 有吉九段も強烈だ。昭和43年春、倉敷市鶴形公園に大山の恩師木見金治郎の記念碑が建ったとき、パーティーの席上、有吉は「大山先生には名人位をずっとつづけていただきたい。自分は神社の狛犬です。攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけます」と発言した。

 勝負の上では師弟といえども、倒すべき相手ではあるが、気持の上でこれほどつながった例は少ないと思われる。大山が将棋連盟会長時代、有吉は関西本部長として、強力にバックアップした。

 名人位についた、その瞬間から、大山にとって防衛への戦略が重要な課題となった。

 当時は腰掛け銀全盛時代だった。現在も復古調でこの戦法が大流行しているので割合、なじみのある言葉になっている。当時の強豪は今以上に殆ど腰掛け銀を採用していた。

 大山は自分の将棋を考え直してみた。85%は合格、残る15%が不満だった。その最大の理由は決断の鈍い点であった。名人と言われても15%に改善の余地がある。それなら、工夫によっては更に勝つことができる。そこに大山は着眼した。

 当時、升田幸三とともに塚田正夫が強敵と目された。ところが塚田は対大野源一戦ではパッとしなかった。大野流振り飛車に二枚腰の塚田戦法が通じないところがある。大山は意識して振り飛車的感覚を居飛車ながら自分の将棋に持ち込んだ。これで対塚田戦の勝率がよくなった。

 もう一人の敵、兄弟子升田に対してはどうしたか。

 升田には内弟子時代から指導を受けた。強さは見に染みて知っているが、また彼の正確も見抜いていた。大山は対升田戦ではガムシャラに勝とうというのでなく、下手に出ながら自分のペースを守って指した。これも成功した。

(以下略)

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将棋世界1973年4月号より。棋聖位獲得後、自宅にて。

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師匠に対局で勝つことを恩返しと呼ぶケースが多いが、それを本当に恩返しと言って良いのかどうかは意見の分かれるところ。

ところが、有吉道夫八段(当時)の「大山先生には名人位をずっとつづけていただきたい。自分は神社の狛犬です。攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけます」は、これぞ究極の恩返し、と言うことができるだろう。

大山神社の狛犬となって、大山名人の名人位を脅かしに来る者を、その前に自分がバッタバッタとやっつける。

火の玉流と呼ばれる有吉九段らしい、師匠を慕う思いだ。

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この翌年、有吉八段(当時)が名人戦の挑戦者となる。

たしかに、名人位を狙って攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけた結果が出た形だ。

直接対決となれば、師匠と弟子の関係を超越した1対1の勝負師同士の戦い。4勝3敗で大山名人が防衛することになる。

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「当時、升田幸三とともに塚田正夫が強敵と目された。ところが塚田は対大野源一戦ではパッとしなかった。大野流振り飛車に二枚腰の塚田戦法が通じないところがある。大山は意識して振り飛車的感覚を居飛車ながら自分の将棋に持ち込んだ。これで対塚田戦の勝率がよくなった」

塚田正夫名誉十段と大野源一九段の振り飛車については、大山十五世名人が語っている講座がある。

近代将棋1983年1月号、大山康晴十五世名人の連載講座「居飛車か振り飛車か」より。聞き手は前田祐司六段(当時)。

前田 第18期(1958年度)A級順位戦からの一局です。

大山 この一戦まで塚田(正夫九段)さんは3連勝で、私はたしか1勝1敗だったはずです。これは負けられない一戦でした。

前田 当時の新聞の観戦記には「名人戦以来、大山は21番指して、うち20番が振り飛車。すっかり大野のお株を奪ってしまった」とあります。

大山 そうね。当時はほとんど振り飛車の将棋を指していましたね。

(中略)

大山 塚田さんは、対振り飛車の成績があまりよくなかった。というのは大野さんの全盛期によく大野さんと戦ったためです。

(以下略)

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塚田名誉十段の対振り飛車の戦績が良くない理由がわかるようなわからないような。

対大野九段戦の戦績が悪かったということは確実に言えることなのだろう。