将棋世界1991年4月号、米長邦雄王将(当時)の「我が師の恩」より。
内弟子生活3年間、この間のことは、詳しく書くことはできない。
かつて先輩の芹沢博文九段と話をした時に、「お前とは将棋の話、酒の話、ギャンブルの話、女の話、人生諸々、あらゆる話をしたけれど、なぜ内弟子の話を今までしなかったか分かるか」と聞かれ、「分かりません」と答えたら、芹沢さんは「それはおたがいにあまりにも辛過ぎるからだ」と一言。
それで、二人の会話が一瞬とぎれてしまったことがあった。
今でも内弟子の話をすると、桜井昇先生などは、うっすらと目に涙を浮かべる始末である。また、塾生というと、木下晃、山口英夫、一瞬にして表情が変わるところが面白い。
これが、我々の世代の塾生、内弟子である。
芹沢さんには内弟子時代にカツ丼をご馳走になったことがあった。
”小僧の神様”がたとえ吉兆へ招待してくれたところで、これほど感激はしなかったろう。
この話を山口英夫七段にすると、「私もご馳走になったことがある。あの味は一生忘れられません」とおたがいに後は話をする必要もない。
同じ話をしても、塾生や内弟子をしたことがない者にはあまりピンとはこないようである。
私も長じて、先崎、林葉を内弟子に採ったけれども、ひょっとしたら、二人とも私と同じような思いをしているのかなあと、時々思うことがある。私自身としては、10分の1の苦労ではなかったかと思うのだけれども、しかし、これは師匠の側の思いであって、内弟子側の思いとは全く別のものだから、こればっかりは分からない。
今、弟子が多くいるのは、佐瀬勇次先生と、高柳敏夫先生が双璧である。数多くの弟子がいて、大勢の内弟子を採られたものである。しかし、私自身思うことは、佐瀬先生における私と、高柳先生における芹沢博文だけは、他の弟子と全く別の存在ではないかと思う。他の弟子は、すでに師匠の生活にゆとりができた後の弟子である。中原誠などは、内弟子というよりも、むしろ婿養子である。花村先生が森下君に注いだ愛情は実の親子以上のものがあった。
芹沢さんを内弟子にした頃は高柳先生は、肺結核で病床に伏しておられた。
芹沢さんから聞いた話だが、口のきき方の悪い芹沢さんに対して、師匠はナイフを投げつけたことがあった。それを芹沢さんがもちろんよけたのに対して、「なぜお前は、師匠の投げたナイフをよけたか」とこれでお説教をくらうというすさまじさであったという。おそらく、高柳-中原の間にはこんなことは一度もあるまい。
米長-佐瀬の関係もまた然りである。言うならば、師弟と言うよりも、それは親子である。この辺りのところを高柳先生から一度お話を伺いたいものと常々考えているところだ。
(中略)
多分、高柳先生は、中原が可愛いと思うが、芹沢は別格だという気がしてならないのである。
内弟子
八段 高柳敏夫
米長・芹沢の「内弟子問答」はなにかで聞いたことがある。別に「くしゃみ」はでなかったが、その辛さがどのようなものか、正直いってわからないのである。
いそうろう おいてあわず いてあわず
似て非なるたとえだが、双方立場の相違をいいえて妙である。
だがいまでも、人間形成の一つとして、したいこと、いいたいこと、の自我の余地のない一時期の体験は、むだなこととは思っていない。
芹沢と私のかかわりは、芹沢の中学2年から約8年。その後の中原の小学5年からの約10年。私の年代的にもA級八段になる前からの芹沢と、中原とではやはり違っている。
ナイフを投げた件についても、ナイフでなく「菜っ切り包丁」で、芹沢の足下の畳に投げつけた、気くばりはしていた。
動機はなにかは忘れたが、相撲の兄弟子は「むり偏に拳骨」と書くそうだが、私自身が上昇を志している頃なので、諸事攻撃的で荒っぽかった。
芹沢は大変な時の内弟子修行だったのだと思う。
A級八段になって2年目に、2年間の病気休場をしている。その時も芹沢は居合わせている。自宅療養で、二間の中の一部屋を病室にするので、芹沢は爺様(故・金名誉九段)宅の一室に寝にいく。
そんなこともいまとなっては得難い思い出になった。
芹沢のときも、中原にも、健康には留意させた。私の自慢は、わが家を出るときの芹沢にしても中原にしても、人並み以上の体格だったことである。中原の後の宮田にしても、これは少々太目にし過ぎたかも知れない。その宮田も入門直後、円形脱毛症にかかっている。のんびり型の宮田にしてそうだから、内弟子というものは大変なものなのかもしれない。
冗談に、中原は誰の弟子でも変わらないが、芹沢の師匠は私でなければ勤まらない、と自信をもっている。芹沢は内弟子の辛さを語っても、それによる「怨み」といったものはない、と確信している。
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「芹沢さんには内弟子時代にカツ丼をご馳走になったことがあった。”小僧の神様”がたとえ吉兆へ招待してくれたところで、これほど感激はしなかったろう」
「小僧の神様」は、志賀直哉の短編小説に出てくる貴族議員。一言でいえば、一軒の寿司屋に特化したあしながおじさんのような立場。
芹沢博文九段は1987年の著書「指しつ刺されつ」で次のように書いている。
カツ丼の恩義というのが将棋界にはある。カツ丼をおごられたら、食ってしまったら、どのような立場になろうとも”弟分”である。その喜び、忘れたと言ったらほとんど仲間外れにされてしまう。
将棋界において、昔のカツ丼は非常に大きな意味を持っていた。
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「芹沢さんから聞いた話だが、口のきき方の悪い芹沢さんに対して、師匠はナイフを投げつけたことがあった」
「ナイフを投げた件についても、ナイフでなく菜っ切り包丁で、芹沢の足下の畳に投げつけた、気くばりはしていた」
菜っ切り包丁は、ナイフや日本刀や出刃包丁のように先が尖っているわけではないので、危険度は少し落ちるものの、やはり投げつけられたら相当に恐い。
とはいえ、「なぜお前は、師匠の投げたナイフをよけたか」が、笑ってはいけないのだろうが、やはり可笑しい。
後年の好々爺とした高柳敏夫名誉九段からは想像もできない壮年時代のエピソードだ。
高柳名誉九段は、「愛弟子・芹沢博文の死」(文藝春秋1988年3月号)で第1回将棋ペンクラブ大賞雑誌部門大賞を受賞している。