将棋世界1991年4月号、米長邦雄王将(当時)の「我が師の恩」より。
私が内弟子をしていた頃、一番上の兄貴が、時々遊びに来ては、「お前は勉強しろよ」と学校の成績が落ちていないかをいつも心配するのだった。母親のかわりに見に来ていたらしい。普通にやってさえいれば、どこか大学を出て、そして無難な生活が送れただろうに。これが親兄弟の偽らざる気持ちであっただろう。だから、将棋をやったがために、成績が極端に落ちることを極度に恐れていたようだ。お前は勉強してるかと、いつも心配していた。
これに対し私の方は「勉強しているよ」もちろん私の言う勉強というのは、将棋のことであるけれども、兄貴の言う勉強とは学校の勉強のことである。
数多く辛いこと、またバカバカしいことがあった内弟子時代だが、そのバカバカしい話のひとつを。
師匠と一緒に稽古に行くことが何回かあったけれども、その帰り道。
下十条(現在の東十条)の駅を降りて師匠宅までは、歩いて約3分。途中で鉄橋を渡る。
ある冬の寒い夜、弟子の私としては、ともかく一刻も早く家に帰って眠りたかった。途中の鉄橋のところは、特に寒風が吹きさらし、寒いことこの上ない。
その鉄橋にさしかかり、そのまま渡り切ってくれればいいなあ、という弟子の願いを聞き入れず、そこで師匠は立ち止まって、何と東海林太郎を唄い始めるのであった。
これに対して、師匠より先に弟子が帰るわけにはいかないから、弟子はそこにずっと立って、聴きほれているよりないのである。
これがまた実に寒い。
師匠思うに、これは”寒稽古”なのだろうが、弟子の方はたまったものではない。
吹きっさらしの中で、師匠は堂々と、赤城の子守唄、あるいは国境の街を唄うのである。
師匠は、最近になってカラオケでマイクを放さない、ということで有名なようであるが、この扇子をマイク代わりにして唄う、というところに現在の片鱗がみられる。このような時に逃げ出すわけにもいかず、先に帰るわけにもいかず、じっと立っていなければならない。これが内弟子である。
扇子を片手に唄う師匠、寒さに耐えてじっとそれを聴いている弟子、真冬の真夜中、オリオン座は頭上に輝き、シリウスは煌々たる光を放っていた。
内弟子時代の話は、思いは尽きない。しかし、一つ一つのエピソードを語るのは、本当にその意味がわかるのは、やはり師匠と私以外になく、誤解を招く。したがってここではあまり触れたくない。
ナイフは飛んでこなかったが、ゲンコツで殴られた経験は何回かある。
一度目は、私の後援会を作る、という時のことであった。
当時、師匠は北区の十条に住んでいたが、その近所に区議会議員の先生がおられた。この先生を後援会長にして、私の通っていた中学校の父兄、地元・城北地区の将棋ファンを母体とした「米長後援会」が作られることとなった。当然、その結成に際して、祝宴を設けることになる。ところが、祝宴を設けたその当日に、私は当然のことながら欠席をしたのである。
いやその師匠の怒ったこと、困ったこと。当然顔はまるつぶれである。
「私の後援会長になっていただくのは政治家なら総理大事以外ありえません。区議会議員が後援会長になるような後援会はやめていただきたい。当日は欠席させていただきます」これが中学生の発言である。
「地元の有力者に後援会長になっていただく、ありがたい。お前はこの親心がわからんか」
そこで衝突した。当然、すっぽかした私と、面目まるつぶれの師匠とで、もめることになった。今なら、もちろん私が師匠を説得する。あるいはそのようなことをさせないのだけれど、当時中学生の私としては立場が弱い。ゲンコツを甘受するよりない。いい師匠だけれども、こういうところがまだ至らない。
二度目は、私が中学を卒業する時に、高校へ進学するや否や、という問題が起こった時である。
当然私は高校へ進学すると言う。ところが師匠が、これまた頑固な男で、「高校進学は絶対許さん」という愚挙に出た。
師匠の言うところをじっと聞いていると、高校へ入学すれば、朝8時から夕方の4時頃まで学校へ行かなければならない。その時間を全て将棋にふり向ければ将棋が強くなる。この世界は将棋が強いかどうかが、価値観の唯一のものである。学歴その他は全く関係ない。したがって高校へ行く時間があるならば、その分将棋に打ち込めば、必ず一流の棋士になれる。しかし、もし高校へ行けば、一流にはなれないから、そのような弟子は弟子として置いてはおけない。言うなれば破門である。
こんな時、弟子としてどうすればよいか?師匠に破門されれば、それで終わりである。師匠の発言は絶対であって、戦前の天皇陛下のお言葉に匹敵する。
行ったら破門するという師匠、どうしても高校へ行きたいという弟子が衝突をする―この時どうなるか。当然師匠の権限は絶大である。通常は師匠の言い分が通り、弟子の方が折れる。しかし何と言っても、そこは米長である。
「もし私のような男を破門するということになれば、この世界で恥をかくのはあなたの方ですよ」
ここでまず一発目のゲンコツが飛んできた。
「では師匠にお聞きしますが、高校へ行かなければ、将棋が本当に強くなるのでしょうか?」
「強くなる。朝8時から夕方4時まで、オレが時間割を作ってやる。数学の時間、英語の時間、国語の時間といったのと同じように、棋譜を並べる時間、詰将棋を解く時間、といったように全部作ってやる。その通りにやれば、お前は一人前になれるぞ」
「それじゃ先生は、一日ぶっ通し5時間、6時間将棋をやったのですか?」
「オレは強い相手と一日に何時間もぶっ通しで将棋を指した」
「私は、将棋の研究を3時間以上すると、頭がボーッとなって研究ができません。5時間も6時間も続けて将棋が研究できるような、生ぬるい勉強方法をやったことがないのです」
ここでまた二発目のゲンコツが飛んできた。
「お前は、なまけておる。なぜ将棋一筋に打ち込まないか」
「いや、なまけているのではありません。私は集中して一日3時間。学校から帰ってきて夕飯までに1回。それから夜2、3時間集中して勉強したらそれで十分であり、またそれ以上はできないものだと思っている。規則正しい生活を送るために高校へ行く―だいたいあなたと同じようにやったのでは、あなた止まりの将棋になるんじゃありませんか……」
ここで最後のゲンコツが飛んできた。
しかし、これを中学生の時、堂々と言える自分も凄いが、目の前で言われて、殴った師匠のその心情やいかに?
師匠の進学に反対する姿勢もまた鬼気迫るものがある。信念というより執念と言うべきか。
殴られながら私は「このひとがこれだけ熱心に、また真剣に命懸けで進学に反対しているのだから、これは絶対に高校へ行かねばならぬはずだ」と決意を固めたのである。
この一件は、後のタイトル戦よりも大きな意味を持つ戦いであるのを中学生の私は感じ取っていたのである。
ではもし高校へ行かなければ?
あるいは師匠の言う通り、もっとましな将棋が指せるようになったのかもしれない。しかし私のことだから、多分昼間は雀荘に出入りしたり競輪場へ行ったりということになっていたことと思う。それはそれで将棋にプラスなのかマイナスなのかは分からない。
自分の人生に他人に口出しはさせない、これが人生の要諦である。
私は当然破門されると思った。師匠も腹にすえかねて、よほど破門しようと思ったことであろうが、恥をかくのが自分だと悟されてはそうもいくまい。結局、「お前の好きなようにやれ」ということになった。
そこで私は、高校へ進学することとなり、師匠の家を出ることになった。
山梨の実家にも進学の件では相談した。
「師匠は高卒はいけない。それでは一流になれないと言っているがどうしたものだろう?」
直ちに母親から返信が来た。
「佐瀬先生の言うのは当たり前だ。お前は間違っている。これからは、どんなところでも良いから大学くらいは出ておきなさい。高卒は駄目だ」
内弟子生活で一番大事なことは何かと言うと、やはり師匠と弟子の関係よりも、奥さんと弟子の関係の方ではなかったかと思う。なぜかと言うと、内弟子というのは、朝ご飯の手伝いをし、お使いをし、拭き掃除をし、夕飯を作り、後片付けをし、あるいはお客さんにお茶を出したりと……家事見習いというのがピッタリの生活だったからである。
だいたい師匠は、昼間はパチンコ、夜は麻雀、ということが多かった。
あれだけ一生懸命働く師匠がなぜだろうと今考えてみると、昭和30年代は仕事がなかったからである。
(中略)
思い出は尽きないけれども、今こうして振り返ってみるに、お互いにそれぞれ家を持って、弟子を何人か養成し、食うには困らないということになってみると、あの、食うや食わずという時間をともに過ごした師弟というもののつながりの深さ、きずなの強さは、別格のものがある。
(以下略)
* * * * *
「師匠は、最近になってカラオケでマイクを放さない、ということで有名なようであるが、この扇子をマイク代わりにして唄う、というところに現在の片鱗がみられる」
佐瀬勇次名誉九段は、タイトル戦の前夜祭、カラオケで唄うのが定跡だった。
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将棋のためには高校へ行った方が良いのか、行かない方が良いのか、これはその人によっても違うので、ケースバイケースで、正解は出てこないことだと思う。
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「師匠は高卒はいけない。それでは一流になれないと言っているがどうしたものだろう?」
「佐瀬先生の言うのは当たり前だ。お前は間違っている。これからは、どんなところでも良いから大学くらいは出ておきなさい。高卒は駄目だ」
このやりとりが絶妙だ。
大学へ行くことが良いことなのかどうかも正解はないが、米長邦雄永世棋聖のお兄さんが3人とも東大へ入っているので、このお母さんの言葉は米長家の家訓に近いものだったと考えられる。
「師匠は高校へ行ってはいけない」ではなく「師匠は高卒はいけない」と表現するところが米長少年の才覚だったと言えるだろう。
米長少年は、この後、中央大学に入学して中退し、六段時代に、高校1年生の時に同じクラスの副級長だった同級生を奥様としている。