森下卓六段(当時)「それにしても▲6四歩とは恐ろしい手があったものです。将棋は怖い」

近代将棋1992年2月号、読売新聞の小田尚英さんの第4期竜王戦七番勝負第5局〔谷川浩司竜王-森下卓六段〕観戦記「竜王戦第5局」より。

第4期竜王戦七番勝負第5局感想戦の模様。将棋マガジン1992年2月号、撮影は中野英伴さん。

 第5局を終え、帰京の途中、新幹線の時間待ちをしていた新神戸駅近くの喫茶店。それまでの別の話題を切り換えて、森下は突然言った。

「それにしても▲6四歩とは恐ろしい手があったものです。将棋は怖い」

谷川の作戦

 対局の前、控え室では先手の谷川がどちらの戦法を採用するかが話題になった。どちらかとは「角換わり腰掛け銀」か「矢倉」である。

 ここまでの戦型を振り返ろう。

  • 第1局 谷川先手 腰掛け銀 持将棋
  • 第2局 森下先手 矢倉 谷川勝
  • 第3局 谷川先手 矢倉 森下勝
  • 第4局 森下先手 矢倉 森下勝

 谷川のローテーションから言えば角換わりが自然なのだが、問題は第1局の内容。結果は持将棋(無勝負、引き分け)だったが、作戦的には森下に利があったで意見が一致しており、対抗策がなければ矢倉の可能性もある。角換わりは先手・谷川の得意戦法であると同時に、後手を持っての森下の(森下は先手では指さない)得意戦法でもあるのだ。入念な研究で、迎え撃つのは目に見えている。負けると竜王防衛が非常に苦しくなる正念場。果たして谷川は角換わりで行くのか。

 第3手を注目した。谷川の手は躊躇なく右側に伸びた。谷川「これ(角換わり)で負けたら仕方がないと思っていました」。さすが谷川だ。敵に後ろは見せない。

「秘中の秘」

 今期竜王戦七番勝負は、矢倉にせよ角換わり腰掛け銀にせよ、仕掛け周辺の両者の構想がまず見所になっている。序盤の研究では棋界一とまで言われる森下が、第1局の△5四角、第2局▲4七銀(これは前日に米長九段が指したのだが、二人の共同研究だという)、第3局は△5三角と、いずれも新研究を披露して最新の定跡に問題提起している。これに答えるのが谷川だから、プロの間でも専門的に大きな関心を呼んでいるのだ。

 そしてここまで森下の研究手順は好結果を生んでいる。もっとも、終盤型の谷川は「多少苦しくなるのは覚悟、そこからが勝負」と見ており、事実第2局は中、終盤に勝負手を放って勝利している。

 さて、谷川が角換わりを選択したからには、1図までは必然の進行だ。第1局と手順まで同一で、控え室に姿を見せた谷川が「芸がないなあ」と冗談を言ったくらい。

 なぜ1図か、という理由は先月号の本誌で、武者野勝巳五段が歴史を辿り明快に解説されているので、それを再読していただきたい。先後同形のこの形から仕掛が成立するかが、今のプロ将棋の大きな焦点となっているのである。

 1図から谷川は当然▲4五歩の仕掛け。以下△同歩▲3五歩△4四銀までは第1局と同じ進行だが、ここで手が変わった。第1局は▲7五歩△同歩と7筋の突き捨てを入れたが、本局は直ちに▲2四歩。この仕掛けも前例がある。現在は若手の間では▲7五歩は指し過ぎか、という見解が多い。谷川がこの正念場でこれを選んだからには、有力な順なのだろう。2筋の歩交換に満足してじっと▲2八に飛を引く。

 手を渡された後手は当然反攻に出る。△6五歩に▲同歩。従来はここで△7五歩と、先手と同じように攻めるところだったが、森下は何と単騎の△同桂!(2図)。またまた森下の新手が出た。

 森下は以前から2図での△6五同桂は成立する、と見ていた。第5局の対策を練るとき、この手がテーマになった。一人でこれ以降の変化を読みに読んだ。正直言って、直前の他の対局の途中でも変化が頭から離れなかった(第5局の前、森下にしては早い終局が続いた。この局にかけていたのだ)。

 △6五同桂は「秘中の秘」(森下)の手だった。それが日の目を見た。

 事前の研究だとこれはうまく行く、と森下はほくそえんだ。でも、相手は谷川さんだ、念には念を入れよう。それで2手前の△6五歩に1時間23分考えた。よし、大丈夫だ。行こう。

桂損の代償は?

 控え室はこの手に驚いた。この桂はタダで取られる運命にある。何か代償がないとひどい。その代償をどう求めるのだろうか。本局は、この桂跳ねの正否を巡る争いとなった。

 譜を追っていただこう。2図から▲6六銀のかわしに△6四角の桂取り。これに対して▲5九角。受け一方でプロは一目打ちたくない感じだそうだが、これ以外に有力な受けは提示されなかった。ちなみに、観戦とNHK聞き手で対局会場を訪れた萩本欽一さんはこの手を当てて大喜びだった。

 3図までは森下の思惑通りに進んだ。

 桂損の代償は5九と7三の角の働きの差、そして自陣は厚く谷川陣右翼に殺到の構えを得たことだ。

驚愕の一手

 森下は一般には受け将棋だと思われている。確かにコマ損を嫌い力をためるタイプだと思うが、本人は「手厚い攻め将棋」と思っている。特にこの七番勝負では積極的に攻める姿勢のようだ。第2局で受けに回って失敗した森下は、第3局では歩損して攻めるという「らしい」感じでともに勝利を得ている。本局はさらに踏み込んで、桂損で攻めるという構想なのだった。

 それにしても、2図の桂跳ねから3図までが森下の研究通りなのだから驚く。感想戦でそう言ったのを聞いた西川慶二六段(NHK解説)、井上慶太六段らは仰天していた。△6五同桂から△7三角まで16手。必然という風には見えない、かなりひねった進行である。これが事前の研究とは。

 一方の谷川、前2局を不本意な受けに回って失ったので、本局は攻める、と宣言していたが、ここまでもまた受けに回った。しかし、今度は先に桂得しているので、同じ受けでも楽しみが違うようだった。3図から反撃。まずは▲4五歩。この手は森下も予想していて「△3五銀とかわして何事もないとおもっていました」という。だが、ここで谷川の次の一手に気がついて愕然とする。

 4図。中空にぽつんと垂らされた▲6四歩。これが森下の構想を、根底から覆したのだ。

新構想に穴

 2日目の午前中だった。▲6四歩自体は控え室で検討していた有吉道夫九段、淡路仁茂八段も指摘した。ただ、単に▲6四歩ではなくいったん▲8八玉と入ってから狙う方がいいとの意見も。しかし▲8八玉では「何でも△5四歩です」(森下)で、事前研究の術中にはまる。△5四歩~△5五歩~4七歩成の殺到が森下の狙いで、めちゃめちゃに厳しいのだ。すぐに▲6四歩だったので、あてにしていた△5四歩は間に合わない。

 ▲6四歩に△同角なら▲5五桂△4二金引▲6三桂成で、角が死ぬ。▲6四歩で角を近づけないと、▲5五桂△4二金引▲6三桂成に、△8四角と逃げられる。△8四角は△3七銀成▲同金に△5七角成(王手銀取り)を見た逆先になっている。何の支えもない▲6四の一歩が森下の全体重をかけた角を止めた。

 何日もかけて練りに練った新構想△6五同桂に穴があった。衝撃が森下を襲った。感想戦で森下は「▲6四歩で投げようかとも思いました」ともらした。

早い投了

 新幹線を待つ新神戸駅のホーム。森下はまた繰り返した。「小田さんね、この僕がですよ、あれだけ考えて、対局中も念を入れたのに。やはり手はあるんですねえ」

 ▲6四歩以降も、控え室ではまだ形勢は難解と見ていた。4図から△8七歩▲4四桂△8四角▲2五桂のところで△3七銀成と勝負する順も相当。だが、森下にとって本局は▲6四歩で終わっていたのだ。盤側から指摘された手に対し、珍しく「馬鹿馬鹿しくて考えませんでした」など、なげやりとも取れる言葉で応じたりもしていた(明るい態度なので、周囲に不快感はなかった)。

 谷川の攻め、寄せは鋭く見事だった。

(中略)

 森下は△2七歩成で谷川に首を差し出した。控え室の淡路八段は「これでは終わってしまう」。この言葉で騒然となった。

 終局は午後4時5分。竜王戦七番勝負では3番目に早い時刻となった。正念場を乗り切った谷川は打ち上げの後くつろいでゲームに興じ、森下は早めに自室に引き上げた。

 持将棋で始まった今期の竜王戦はついに2勝2敗のタイにもつれ込んだ。後は改めての三番勝負となる。少なくとも年末まではかかる勝負に付き合ってきて、今年は将棋の最前線に立ち合える喜びを実感している。一局一局を見ると本局のように差がつく局が多いのだが、全体を通すと、特長、棋風の違う両者が拮抗して総合力を競うのがわかる。熱戦のシリーズだと思う。

まだ強くなれる

 やはり新幹線のホームで森下「これだけやっててまだわからないということは、将棋が深いんでしょうか。僕は四段になった時より香一本は強くなったと思いますが、あんな手があるということは、これからもまだ香は強くなれるということですよね」。当たり前だが、挑戦者の意欲は萎えていない。

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今朝の記事「谷川浩司竜王(当時)『結局、50手目で研究が外れた私が勝ち、66手目まで研究通りに進んだ森下六段が負ける、という結果となった』」を森下卓六段(当時)の側から見た記事。

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この対局が終わった時点で2勝2敗1持将棋。

しかし、この一局が大きかったのか、ここから森下六段が2連敗して、谷川浩司竜王(当時)が防衛を果たすことになる。