将棋世界1992年7月号、谷川浩司四冠(当時)の第50期名人戦第3局〔中原誠名人-高橋道雄九段〕観戦記「流れを変えられるか」より。
3月26日、挑戦者決定戦の翌日、私は遂にダウンしてしまった。
この日は臨時総会が意外に早く終わり、仲間とお茶を飲みながら時間を潰していたのだが、どうにも吐き気が治まらない。
知人との約束、というのを生まれて初めてキャンセルし、ホテルで寝込んでいた。
高橋九段に負けた夜は、悲惨だった。
毎日新聞の加古さんが買ってきたウイスキーで、連盟の控え室で関係者と打ち上げ。
おつまみなしで飲んだのも、影響したかもしれないが、それはともかく、その時に第3局の特別立会いを依頼された。
思えば、昨年の7月からタイトル戦続きで、疲労も緊張も限界に達していた。
将棋の神様が、2ヵ月間の休養を与えてくださったのかもしれない。
決定戦から2週間後、第1局が始まる頃には、ようやく本心からそう思えるようになってきた。
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将棋マガジン1992年9月号、毎日新聞の加古明光さんの「第50期名人戦終了 激闘のシリーズを振り返って」より。
50期を迎えた今期名人戦は、10年ぶりのフルセットの闘いになり、中原誠名人が挑戦者、高橋道雄九段に後半3連勝のはなれわざで、V15を達成した。半世紀を終えた名人戦にふさわしいエキサイティングな盛り上がりを見せた七番勝負を振り返ってみる。
今期の名人戦で、最も異色に思われたのは、挑戦者、高橋の登場だろう。四者のプレーオフになったが、衆目の一致するところは、谷川の挑戦だった。四冠王になって、勢いはとどまることを知らない。しかも、パラマス方式による対戦で、一番優位な立場にいる。ところが、最下位から勝ち進んできた高橋が、最終決定戦でも谷川を破ってしまった。
そのプレーオフ最終日の終局後をまだ思い出す。高橋の勝ちに終わり、高橋は「初めてタイトル戦で、中原先生に教えてもらえます。光栄です」と感想を残して帰路についた。記事出稿のあとかたずけをしていた取材室に谷川が姿を見せ「きょうは打ち上げはないんですか」と言う。A級最終局で打ち上げは終えているからそれは予定していない。「だが、おつまみ抜きのウイスキーならありまっせ」と、色気も食い気もない打ち上げとなった。
そのときの谷川の落胆ぶりは、かつて中原に名人を奪回された琵琶湖畔の夜よりもひどかった。のちに谷川が、雑誌上で「翌日はつかいものにならず、初めて約束をキャンセルした」と述べているが、ショックは相当のものだっただろう。
だが、私は結果として、この敗戦が谷川にフィアンセを見出すことにつながったと思う。聞けば、お見合いは4月とか。挑戦者になっていれば、とてもお見合いどころではあるまい。まだ「一人のミソジ」を迎えていたかもしれない。
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将棋マガジン1992年8月号より。
谷川浩司竜王が5月28日、東京千駄ヶ谷の将棋会館で婚約を発表した。お相手は名古屋市在住の江尻恵子さん(24歳)。愛知県立大学文学部卒業後、名古屋銀行秘書室に勤務している。身長162cm、スラリとしていて、可愛らしいお嬢さんである。棋界のプリンス谷川竜王の記者会見とあって、当日は報道陣が押し寄せ、質問を浴びせた。二人の出会いは、谷川竜王の母・初子さんの知人の紹介で4月18日に神戸でお見合いをしたこと。「4月、5月は幸か不幸か対局がなく」(谷川)、十分にデートを重ねる時間があり、1ヵ月足らずの5月10日にプロポーズしたという。4月に30歳になったばかりの谷川竜王、棋風そのまま光速の寄せだった。結婚式は10月3日、神戸ポートピアホテルで行われる。
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「この日は臨時総会が意外に早く終わり、仲間とお茶を飲みながら時間を潰していたのだが、どうにも吐き気が治まらない」
この時期に臨時総会が行われるのは異例のことだが、名人戦の毎日新聞から朝日新聞への移籍に関することが議題だった。(移籍はせず現状のままという結論に)
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「きょうは打ち上げはないんですか」
「おつまみ抜きのウイスキーならありまっせ」
毎日新聞の加古明光記者は、棋士たちから”水割りおじさん”と呼ばれるほどのウイスキーの水割り好き。
ただ、この日は自分用に買っていたウイスキーなので、氷が用意されていたとは考えづらく、かといって生ぬるいミネラルウォーターで割っても美味しくないので、谷川浩司四冠(当時)もストレートで飲んでいた可能性が高い。
つまみなしのストレートでガンガン飲めば、翌日の午後まで気持ち悪い状態が続くのも無理はない。
名人戦挑戦をあと一歩のところで逃した直後の酒、苦いけれども進んでしまう酒だったのだろう。
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「将棋の神様が、2ヵ月間の休養を与えてくださったのかもしれない」
「この敗戦が谷川にフィアンセを見出すことにつながったと思う」
まさに「人間万事塞翁が馬」そのものの展開だ。