棋士だけの持つメリーゴーランドの世界

とにかく泣かせる団鬼六さんのエッセイ。

近代将棋1994年2月号、「鬼六将棋面白談義 牛どん屋にて」

 何時頃から吉野家の牛どん屋が好きになったのだろうか、はっきりわからない。初めてこの牛どん屋に入ったのは引退棋士の大友昇八段と一緒だった事だけは覚えている。

 横浜、桜木町の駅前通りをところかまわず二人で飲み廻り、へべれけになって何やら妙に電灯の明るい店へ足を踏み入れたなと感じたが、それがこの牛どん屋、吉野家であった。アルバイトらしい若い店員に、ここはメシ屋か、と聞くと、ビールや酒も置いている、という。それで助かった気分になり制限時間一杯まで私達は腰を据えて飲み出した。

 制限時間というのはこの店では酒類の販売は12時までと時間を制限されているのだ。それにお一人、ビールなら3本、お酒なら3本と数量まで制限されている。この制限というのが気に入って私は一人ぼっちで飲む時はこの吉野家を大いに利用する事になった。

 一人、酒類は3本まで、それも12時以後の販売は禁止というのは自分の年も考えて、これは健康管理上、非常に好ましい事である。ただし、こういう店は一人で飲みに行く所であって、仲間を招待するのはどうかと思うのである。奨励会員だって、よく、今日は吉野家でおごってやるぞ、というとあまりいい顔はしない。鬼六先生、とうとうそこまでセコくなったと陰で悪口をいうにきまっている。

 この庶民に愛されている牛どん屋で一人、飲むことを覚えてからこの店はなかなか捨て難い味わいのある事を知った。ここへ出入りする人々のむき出しにした生々しい食欲を見廻しながらチビリ、チビリと酒を飲む気分はこれこそ粋人の飲み方だと感じる事がある。ここは単に人間の食欲を軽便におぎなう場所であって見栄もなければ理屈もなく、何の知識も必要としない。

 それまで私は一人、静かに飲む時はニューグランドホテルとか、ブルーズベイホテルの酒場などで年配のバーテンを話し相手にし、オールドパーのストレートをチビリ、チビリであった。バーテンに紹介された外人の泊り客に下手な英語で語りかけ、面白くないのにキャッキャッ笑ったりしていたが、そういうのは全く気障で哀れみな飲み方だと吉野家に出入りするようになって思い知るようになったのである。

(中略)

 昨日も雑誌社の編集者何人かと福富町で飲み、彼等を桜木町駅まで送ったあと、一人で久方ぶりに吉野家の牛どん屋に向かった。時計を見れば11時を少し出たばかり、飲酒可能のタイムリミットまでには間に合いそうだと急ぎ足になるが、これが吉野家一人酒の楽しさでもある。

 雪でも降るのではないかと思われるような寒い日でうなるような風の中を突き抜けて皓々と電気の輝く暖かい店内に入った時はほっとした気分になった。

 もう12月半ば、吉野家の窓から見えるデパートではこの寒空の中、クリスマスの飾りつけ工事が行われていて歳末感はやはり匂い立ってくる。

 例によって私は肉皿の並とおしんこ、お銚子3本を注文し、入れかわり、立ちかわりの客の動きを観察しながらチビリ、チビリと酒を飲む。やはり、歳末のせいか客の出入りは何時もより多いようだ。客類は種々雑多でサラリーマン、学生、運転手、土木労務者、安キャバレーのホステスらしい女―仲間づれで入ってきても飲酒するのは少なく、せかせかと飯をかきこんで食欲だけを満たすと小銭を出し合って割り勘で会計をすまし、寒い夜空の下へそそくさと出て行くのだ。

 こうした店で通りすがりにふと見た人とはもうこれで二度と会う事もないと思うと、これもまた一期一会であって人生的な面白さを感じるものだ。

(中略) 

 こりゃいかん、と独り言の出た自分を正気づけようとあわてて首を振った時、前面に私の方を不思議そうに見ながら食事をしている親子連れらしいのに気づいた。

 親子連れはまだ40代らしいジャンバー姿の父親に8才位と6才位の女の子、それに5才ぐらいの男の子という4人づれで、もう11時を廻ったこんな深夜の牛どん屋で子供に飯を喰わすというのも奇怪な感じだ。恐らくこの親父、女房に逃げられたのではないか。幼い子供は自分が引きとり面倒を見ているものの、親父の勤務時間の都合でどうしても子供達に夕食を喰わしてやる事ができず、子供の腹の減り加減を調製させて、こんな深夜に親子4人で牛どん屋ののれんをくぐる―と勝手な想像が生じてくる。姉二人は弟のために店に頼んで小さな器を出してもらうとそれに自分達の丼の飯や肉を分けて盛り上げてやっている。長女らしい8才位の女の子は何となく林葉直子に似た美人顔で、それにそんな年頃でありながら身体つきに不思議な色気が滲み出ているのだ。父親が煙草をジャンバーから取り出すのを見たこの美貌の長女は店の奥に向かって、「すみません、灰皿をお願いします」と声をかけ、父親の世話をちゃんと見ている所など感心させられる。こういう美少女がやがて成長すればどういう境遇になるか、姉弟で労務者らしい父親と一緒に深夜の牛どん屋で食事をするというようなこういう惨めな少女時代を過ごしただけに将来はその逆に華やかな幸せをつかむのではないかと空想してみたくなる。デビ夫人みたいなのもいいな、いや、宮沢りえだっていいじゃないか。そんな空想を楽しんでいる時、足元に紙袋が投げ出してあるのに気づいた。さっき、今月から私の小説の担当者になったKKベストセラーズの編集者が駅前近くの菓子店で、「これ、お孫さんに」と買ってくれたもの。あげてみるとキャンディーとクッキーの詰め合わせだった。

 これ姉弟で分けなさい、と、前面のスタンドに坐る女の子の方へその包みを差し出すと、彼女たちはギョッとした顔で私を見つめた。キャンディーにクッキーだよ、何もこわがる事はない、と私が笑うと突然、親父が大声で、「皆んな、立って」と、子供達に向かって命令口調でいったので私も驚いた。

 「おじ様、どうも有り難う」と親父にリードされて3人の幼児が一せいに土間に立ってこっちへ頭を下げたのだが、こういう光景を見せられると私も年の故かどうもいけない。5才位の男の子まで親父に椅子から抱き下ろされてペコリとこちらへ頭を下げているのを見ると、忽ち、目頭が熱くなってしまった。

 私から受け取った袋の中身を引っ張り出して子供達は幸せそうに笑った。親父も改めて私に礼をいうと、自分はどこどこに住んでおります、とか、自分は何々鉄工所で溶接工をやっております、とか、聞きもしないのに私に向かって自己紹介した。自分は、自分は、という名乗り方が一寸やくざっぽいが真面目人間を感じさせる。えてして、こういうタイプの男が女房に逃げられやすいのである。

 この親子連れが引き揚げた頃には制限本数のお銚子3本も残り少なになり、そろそろ御輿を上げねばと気持ちはそうなっているんだが、何か考え事をしなくてはならない気がしてなかなか腰が上がらない。

(中略)

 「あれ、先生じゃありませんか」といきなり横から背広姿の男に声をかけられた。男は二人づれでサラリーマンになり立てといった感じの若い連中だった。「その節はどうもでした」というのだが、私は思い出せない。K大学応援団のマネージャー石田ですよ、と彼はいった。そう、養老の滝で先生から宴会費をカンパしてもらったじゃないですか、と彼がいったので私はようやく思い出した。2年ばかり前だったか、当時、将棋ジャーナルの専属ライターであった国枝久美子と大衆居酒屋「養老の滝」に飲みに入った時、知り合った学生である。その居酒屋の2階ではK大学応援団の何かの宴会が開かれていて、マネージャーの石田君は予算がオーバしたとか何かで階下の店の会計と悶着を起こしていた。あとビール10本、と、石田君が頼むのに対し、店の方は、それぢゃ予算が足りぬと突っぱね、金は後日、払う、と石田君がいっても店の方は聞き入れない。それを耳にして国枝が私から受け取った一万円をカンパだといって石田君に手渡したのだ。こっちはジャーナルを廃刊しようか、どうか、大事な相談を彼女としていた所で、横っちょが何だかうるさいから追っ払うつもりでカンパしてやったのだが、石田君は2階へかけ上がって部員にそれを報告したらしい。突然、もの凄い足音をさせて5、6人の酔っ払った団員が階段をかけ降り、私達二人を取り囲んだ。団員の中に私を知っているのがいたらしい。「先輩に対し、お礼にエールを遅らせて頂きます」と団長らしいのがいった。自分達はK大学の先輩でも何でもないのだからこの店でそういう派手な事をしてもらっては困る、と私達は尻ごみしたが、彼等は聞かない。ビール10本、つけで飲ませぬこの店に対する嫌がらせの意味もあったのだろう。それにしても店の中で応援団長の両手を宙に上げての指揮のもと、フレー フレー オニロク、には閉口した。

 2年ぶりにその時の応援団部員に今度は吉野家で再開したわけだが、石田君は現在は商事会社の真面目なサラリーマンになっているらしい。あの応援団時代はボサボサ頭をしていたが、今ではスペインの闘牛士みたいな髪型でべったりポマードを塗っているみたいだった。

 「へえ、先生もこういう店にいらっしゃる事があるのですか」

(中略・・・この石田君と連れの男性は、その時のお礼ということで、自分達も日本酒とビールを3本ずつ頼んで団さんの席へ持ってこさせ、団さんの勘定も彼らが支払って帰っていった)

 しかし、一人で飲む時の酒はやっぱり3本が限度というもので、石田君がおごってくれたのは有り難いが、4本目を空け、5本目に手を出すようになると、酔い心地も何もあったものではなく、酒にただ身を任せているという感覚があるだけ。苦痛すら生じてくる。それなら飲むのをやめればいいのだが、まだ1本残っていると思うと、そこが飲み意地の汚さというか、たかが牛どん屋の酒であろうと無駄にするものかと戦い抜く気持ちになってしまうのだ。

 日本酒をたて続けに飲むと喉が乾き、水がわりに途中でビールを少し飲んでみる―こうした無茶な飲み方が一番よろしくない。頭がくるくる廻転してくる。脈絡のない思いでみたいなものが、浮かんでは消え、消えては浮かび、次から次にとりとめのない事が脳裡に明滅するようになる。

 今年、死んだ友人、知人の顔が万華鏡のようにチカチカと頭のなかに浮かび出てくるのはこれは相当に大酔いした証拠なのだ。ハナ肇のようにがんで死んだのもいた。野村秋介みたいに自殺したのもいた。交通事故で死んだ友人もいる。しかし―殺されて死んだ友人というのはこれまで一人もいなかったが、遂に今年は出た。森安秀光九段のあの人懐っこいニタリニタリした顔が最後に浮かび上がって来たのである。

 森安さんが横浜の私の家に来遊したのは3回ぐらいになるだろうか。私だけではなく俗世界にうごめく現世主義的人種というものは棋士と飲んだり歓談する機会を持つという事を心の安息日が持てたように悦ぶものだがそれは私達が失いつつあるあの幼児性というものを彼等は持続させているからであり、彼等と接する事によって少年期の郷愁といったものを感じとる悦びがある。森けい二九段や真部一男八段など、子供のまんま大人になった感じで、深夜までバックギャモンみたいなゲームの話に熱中するなど、これは棋士だけの持つメリーゴーランドの世界であって、ウルグアイ・ラウンドとか政治改革法案など口にするガキは仲間に入れてもらえない。

 森安さんも大人の世界の悪徳的なものから一切、解き放たれた自由な子供の世界を持つ人だった。それがどうしてこうした悪徳的、現世的、かつ猟奇的な怪奇事件に巻き込まれてしまったのか。俗悪社会の悪魔は遂にこの浮世離れした平和郷にまで忍び入る―そんなこわい時代になったのかと慄然としたものを感じとる。

(中略)

 この牛どん屋のすぐ近くに森安さんが横浜に来遊した時、連れて行ったいわし料理の店がある。そこで、人間以外の動物はすべて後向位でセックスすると思われているが、正常位でセックスする動物はほんとにいないか、というようなアホな事が話題になり森安さんが将棋の手を読むような顔つきで考えこんで、「クマはどうでっしゃろ」といったのも今となっては懐かしい思い出となる。クマはやっぱり後向位や、と私がいうと、「そんなら、ハリネズミ」「ハリネズミ?」「ハリが痛いからうしろから突き刺す事は出来へん」

 あとで動物園に勤務した事のある人に聞くと、ハリネズミだってその時はハリを斜めに倒してひっこめるからやっぱり後向位で行うという事だった。

 クマとか、ハリネズミとか、そんな子供みたいな事をいってニタリ、ニタリしていた森安さんの顔が懐かしい。動物の場合は後向位だけで正常位はないという結論に到達しそうになると、「いや、そういう問題は内藤先生がくわしいですから今度、聞いてみまっさ」といった。内藤九段がそういう問題にくわしいかどうか知らないけれど、森安さんは酔えば必ず兄弟子である内藤九段のことを口に出した。動物はうしろ向きでないとようせんのか、という問題だけでなく、わからない事は何でも内藤先生に聞けばわかる、といった風にこの兄弟子を信頼し、甘えかかっているような所があった。

 今、吉野家で飲み過ぎて二日酔いの頭を抱えながらこの原稿を書いているのだが、机の横手に12月1日号の週刊将棋が放置してある。その中に内藤先生の「森安秀光君を偲ぶ」と追悼の一文があり、少し、抜粋させて頂く。

―君はやさしくて私のために幾度か涙を流してくれたね。忘れもしない。あれは昭和58年。姫路よりまだ西の方の相生という所で私が高橋君に敗れて王位を失った。投了した私の眼と控え室から来た君の眼がふとあった時、君の眼は泣いていた。「ああ、私のために胸をいためてくれたんだな」って、敗れた事よりもその事の方に私は胸打たれたよ―

―それから近いところでは私の娘の結婚式の時、父親の私が泣かないのに、いや、泣かないので、といった方がいいか、君が涙を流してくれた―

 恐らく内藤先生はこの一文を泣きながら書いたに違いない。私も思わず胸をしめつけられてしまった。森安さんの感傷的人間の一面がこの一節に描き出されている。

 そういえば私は森安さんが横浜のどこかの店で酔い泣きしたのを一度、見た事があった。あれはどこだっけ、石田君の差し入れてくれたお銚子はあらかた飲み乾してしまった私はようやく腰をあげた。すっかり酩酊して椅子から何度も転げ落ちそうになっていた私は牛丼をかきこんでいる労働者諸君に手を振って別れを告げ、フラフラと寒空の下を歩いていく。

 これからどこへ行けばいいんだ。好きな風に歩けばいいんだと都橋あたりまでたどり着いた時、ようやく森安さんが酔い泣きした酒場を思い出す。野毛商店街を横に入った柳通りの奥だったと、フラフラと路地に入って行ったが、たしかネッシーとかいったその小さな酒場は見当たらない。もう代が変わってしまったのだろうか、他の店へ入って聞いてみようかと思ったが気がつけばもう夜中も2時を過ぎている。どの店もヨロイ戸を閉めて私はすっかり行き場をなくした感じとなり、疲れ切ってフラフラと石畳の上に坐りこんだ。

 たしかに森安さんが急に酔い泣きを始めたのはここらあたりの店で、ロシヤ民謡を聞かせる5、6坪の小さなスタンドバーだった。

 何軒かを廻って相当に酩酊した森安さんは、内藤先生は僕にこんな事、いわはりましてん、とか、ゆう子たん、ゆう子たんとうめくように口走っていたが、ロシヤ民謡が流れ出すとスタンドの上に額を押しつけて肩を小さく慄わせるようにして嗚咽し始めたので私は驚いた。曲は「灯」だったか、「走れトロイカ」だったか、覚えてはいないが、ゆるやかな哀調のある曲だった。つい、さっきまでどこかのカラオケ酒場で「おゆき」など唄ってはしゃぎまくっていた森安さんがここへ来て急に嗚咽するなど、どういう事なのか。酔い疲れた身体に哀調と悲哀ムードが漂うロシヤ民謡が切なく沁み入ったのだろうか。それとも何か泣きたいような事があったのか。また、高橋さんより王位を奪われた内藤九段のあの時の無念さを急に思い出したのだろうか。これも本人が消滅した今となっては聞き出す事もできない。

 私は路地の石畳の上で浮浪者みたいに寝入りそうになった自分に驚き、起き上がろうとして転んだ。そして、転んでは起き上がろうとし、「しっかりしろ、転んだら起き上がるってのがダルマ流だろう」と、自分を叱咤した。そして、転んだまま起き上がれなくなった森安さんが急に腹立たしく、煮え切らなく思えて、涙が止まらなくなった。

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私も、この団鬼六さん文章を打ち込みながら、涙がどんどん出てきてしまった箇所が3つある。

最上級のエッセイであり追悼文。

故・団鬼六さんの優しさをつくづく感じる。

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内藤國雄九段が将棋マガジンに書いた森安秀光九段への追悼文も涙なしでは読めない。

1994年2月号、内藤國雄九段の「追悼文 棋聖、森安秀光でございます」より。 →広い東京でただひとり、泣いているよな夜がくる

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